岩出山城 のバックアップの現在との差分(No.2)
城情報現実の城情報岩出山城(いわでやまじょう)は宮城県大崎市(陸奥国玉造郡)にあった城。 奥羽山脈から大崎平野西端にのびる山塊の先端部分の城山(標高108m)に築かれた山城である。 元は岩出沢城と呼ばれ、奥州探題として陸奥に下向した斯波大崎氏に随従した氏家氏が築き代々拠点としたとされている。 奥州仕置、それに次ぐ大崎葛西一揆後に一帯を与えられた伊達政宗が、検地等を行った徳川家康より岩出沢城を受領し(この際に岩出山城と改名された)政宗が仙台城に移るまでの間、居城となった。 岩出山城(いわでやまじょう)は奥羽山脈から大崎平野西端にのびる山塊の先端部分の、標高108メートルの城山に築かれた山城で、江戸期の伊達21要害の一つ。 堀切で分断された本丸・二の丸・三の丸が巨大な二重の土塁で守られていた。本丸は長さ200メートル以上の大きな曲輪で、金丸と腰曲輪によって守られ単独の中規模城郭としても機能できた。城は南側を蛭沢川、北側を内川で挟まれ、東側は城下へとつながっており、西側は北端部に沢が入って丘陵とは遮断されており、ほぼ独立丘陵上に立地している。 元は岩出沢城と呼ばれ、奥州探題として陸奥に下向した斯波大崎氏に執事として随従した氏家氏が築き代々拠点としたとされている。氏家氏は15世紀後半頃から大崎氏と対立するようになり、天正14年(1586年)に大崎義隆の小姓間での争いが大崎氏の内紛に発展したことで天正16年(1588年)に勃発した大崎合戦では、氏家吉継は伊達政宗の支援を得て義隆と戦った。大崎合戦は伊達方の敗北で終わり、後に吉継は政宗に仕えた。 奥州仕置、それに次ぐ大崎葛西一揆後に一帯を与えられた伊達政宗が、検地等を行った徳川家康より岩出沢城を受領し(この際に岩出山城と改名された)政宗が仙台城に移るまでの間、居城となった。 この時に家康は岩出山城の縄張・改修を行ったとされ、城の北西に設けられた馬出は家康によるものであり、また城の南西側を伸びる長大な横堀も家康によると考えられている。 続きをクリックで表示 政宗が仙台城に移って後も、岩出山要害が置かれ、政宗の四男宗泰を祖とする岩出山伊達家が代々領有した。 政宗が仙台城に移って後も、要害拝領によって岩出山要害が置かれ、政宗の四男宗泰を祖とする岩出山伊達家が代々領有した。 麓には仙台藩の藩校の1つ有備館が置かれるなど、江戸期においても仙台藩の要所であった。 現在では、(東日本大震災で主屋が倒壊する等の大きな被害を受けたが)有備館が国の史跡として保存されている他、本丸跡地は城山公園、二の丸跡地は岩出山高等学校、大手門後は岩出山小学校の敷地となっている。 この時期の岩出山城は要害として幕府から認められたとはいえ、施設の増設や新設は難しかったと考えられる。また上述の家康による改修期間は約40日ほどであり、政宗は朝鮮出兵や京での滞在期間が多く岩出山城に在城していた期間は短かったとされる。そのため岩出山城には中世期の遺構が残されている可能性が高いとみられる。 現在では、(東日本大震災で主屋が倒壊する等の大きな被害を受けたが)有備館が国の史跡として保存されている他、本丸跡地は城山公園、二の丸跡地は岩出山高等学校、大手門跡は岩出山小学校の敷地となっている。
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