山吹城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報山吹城(やまぶきじょう)は島根県太田市(石見国邇摩郡)にあった、石見銀山をおさえる為の拠点として築かれた山城である。 山吹城(やまぶきじょう)は島根県大田市(石見国邇摩郡)にあった、石見銀山をおさえる為の拠点として築かれた山城である。 標高414mの要害山の山頂に大規模な主郭を持ち、その南北に複数の郭がおかれ、北方には堅土塁が、南方には連続した堅堀が存在する。 このような構造の違いは、南方は毛利方への備えであることから尼子氏所有時代に拡張され、北方は尼子方への備えになることから毛利氏所有時代に拡張されたことに由来する可能性が指摘されている。 延慶2年(1309年)頃石見銀山が発見され、これを支配した時の大内氏当主大内弘幸が築城したという伝承があり、少なくとも鎌倉末期から南北朝期には当地に拠点となる砦などが存在したと見られている。 そして、周囲に設置された複数の城郭と連携して石見銀山とそこから伸びる街道筋を防衛することで、石見銀山の支配を行っていた。 続きをクリックで表示 石見銀山は15世紀後半から16世紀前半大内義興から義隆の頃の開発によって採掘量が大幅に増加し、その重要性を増した。 秀吉が天下を統一する過程で石見銀山は秀吉と毛利氏の共同統治となったが、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は石見銀山周辺を天領とすると検分役に任じられた大久保長安が山吹城に入った。 山吹城址は昭和44年(1969年)周辺の矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡とともに国指定の史跡「石見銀山遺跡」の一部となり、平成19年(2007年)には世界遺産のうち産業遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部となった。 山吹城址は昭和44年(1969年)周辺の矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡とともに国指定の史跡「石見銀山遺跡」の一部となり、平成19年(2007年)には世界遺産のうち産業遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部となった。 現在でも竪堀や空堀、竪土塁などが確認出来るほか、現地には案内板等が設置されている。 また、麓の西本寺の山門は山吹城の移築城門と伝えられていたが、近年の調査によりこれは否定されている。
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