山吹城 のバックアップの現在との差分(No.3)

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山吹城(やまぶきじょう)は島根県太田市(石見国邇摩郡)にあった、石見銀山をおさえる為の拠点として築かれた山城である。
山吹城(やまぶきじょう)は島根県大田市(石見国邇摩郡)にあった、石見銀山をおさえる為の拠点として築かれた山城である。
標高414mの要害山の山頂に大規模な主郭を持ち、その南北に複数の郭がおかれ、北方には堅土塁が、南方には連続した堅堀が存在する。
このような構造の違いは、南方は毛利方への備えであることから尼子氏所有時代に拡張され、北方は尼子方への備えになることから毛利氏所有時代に拡張されたことに由来する可能性が指摘されている。
延慶2年(1309年)頃石見銀山が発見され、これを支配した時の大内氏当主大内弘幸が築城したという伝承があり、少なくとも鎌倉末期から南北朝期には当地に拠点となる砦などが存在したと見られている。
そして、周囲に設置された複数の城郭と連携して石見銀山とそこから伸びる街道筋を防衛することで、石見銀山の支配を行っていた。
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石見銀山は15世紀後半から16世紀前半大内義興から義隆の頃の開発によって採掘量が大幅に増加し、その重要性を増した。
そのため周辺勢力による争奪の場となり、天文期に入ると大内氏と尼子氏の間で何度も石見銀山の所有を巡って戦が繰り広げられ、山吹城も争奪の中で徐々に拡張されていったものと考えられる。
天文20年(1551年)大内義隆が家臣陶隆房(この後晴賢に改名)によって討たれる大寧寺の変が起こる一方、尼子晴久は幕府より守護に任ぜられた8カ国の鎮撫に専念しており、石見東部の情勢は一旦平穏を迎えた。
しかし、天文24年(1555年)厳島の合戦で陶晴賢が毛利元就に討たれると、毛利氏は大内氏支配圏の吸収に取りかかる一方、尼子氏も石見銀山を狙い石見へ進出を開始、両者による石見銀山の争奪が開始される。
その中で、時の山吹城主刺賀長信は弘治2年(1556年)毛利氏に臣従するも、永禄元年(1558年)には尼子氏の攻撃で刺賀長信は自害、かわって尼子家臣本城常光が城主となった。
毛利氏は奪還を図るも、永禄2年(1559年)の降露坂の戦いなど、本城常光の前に度々手痛い敗北を喫した。
しかし、永禄5年(1562年)雲芸和議において尼子氏が石見不干渉をのんだことで身動きをとれなくなった隙をついて毛利氏は山吹城を攻撃、見捨てられる形となった本城常光は毛利氏に降伏した。
本城常光は間もなく毛利氏によって暗殺され、石見銀山の所有権はこれ以降毛利氏がおさえ、吉川氏の管理するところとなった。
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秀吉が天下を統一する過程で石見銀山は秀吉と毛利氏の共同統治となったが、関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は石見銀山周辺を天領とすると検分役に任じられた大久保長安が山吹城に入った。
しかし、翌年には石見銀山統治の拠点は麓に作られた大森代官所(現在の石見銀山資料館)に移され、山吹城は廃城となった。
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山吹城址は昭和44年(1969年)周辺の矢滝城跡、矢筈城跡、石見城跡とともに国指定の史跡「石見銀山遺跡」の一部となり、平成19年(2007年)には世界遺産のうち産業遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部となった。
山吹城址は昭和44年(1969年)周辺の[[矢滝城跡>矢滝城]]、[[矢筈城跡>矢筈城]]、[[石見城跡>石見城]]とともに国指定の史跡「石見銀山遺跡」の一部となり、平成19年(2007年)には世界遺産のうち産業遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部となった。
現在でも竪堀や空堀、竪土塁などが確認出来るほか、現地には案内板等が設置されている。
また、麓の西本寺の山門は山吹城の移築城門と伝えられていたが、近年の調査によりこれは否定されている。
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|所在地|島根県太田市大森町銀山|
|所在地|島根県大田市大森町銀山|
|現存状態|竪堀、空堀、竪土塁|
|城郭構造|山城|
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