屋嶋城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報治承・寿永の乱での屋島の戦いで知られる地に築かれていた、瀬戸内海防衛を担った古代山城(朝鮮式山城)。 『日本書紀』天智天皇667年11月条には「倭国高安城、讃吉國山田郡屋嶋城、対馬國金田城を築く」とある。 当時の屋島はその名の通り島であり、屋嶋城は標高292メートルの南嶺と標高282メートルの北嶺の全体が城域とされるが、城壁などの遺構は南嶺のみで確認される。 南嶺の周囲には全長約7キロメートルに渡って城壁が巡っているが、その9割は天然の断崖で、断崖の切れ目に人工的な城壁が築かれた。 平成10年(1998年)に南嶺で石塁が発見されてから屋嶋城の調査が本格的に進み、平成14年(2002年)には城門が確認され、高松市による整備事業を経て平成28年(2016年)から一般公開されている。
コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照 画像を非表示