尼崎城 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]

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江戸幕府が畿内防備のために築かせた、水陸交通の要衝を押さえる城。その水に浮かんだ優美な姿と、琴浦と呼ばれる美しい海浜に位置することから「琴浦城」の別名がある。
尼崎の地には大永6年(1526年)に細川高国が築き、三好長慶や荒木村重なども入城したことがある尼崎城(大物城)があったが、近世の尼崎城とは別の城だったとされる。
新たな尼崎城が築かれたのは元和3年(1617年)で、築城の名手で徳川家康の近習だった戸田氏鉄が[[膳所城]]から移って築城に着手した。
尼崎は西国街道を東上すると京、尼崎街道を進むと大坂に至る陸上交通の要所で、猪名川や神崎川河口の良港を押さえる水上交通の要所でもある重要拠点であり、江戸幕府は畿内の防備、特に[[大坂城>徳川大坂城]]の西の守りとして重視していた。
そのため翌年に完成した尼崎城は、四重の天守を持ち、二の丸・松の丸・西三の丸・東三の丸が螺旋状に配置され三重の堀で囲まれる、5万石の大名には不相応なほど大規模な城となった。

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氏鉄は寛永12年(1635年)に[[大垣城]]に移り、代わって[[掛川藩>掛川城]]から青山幸成が入り、尼崎藩の基礎を固めた。
青山氏は4代にわって尼崎藩主を務め、幸秀の代で[[飯山藩>飯山城]]に移り、宝永8年(1711年)に桜井松平氏の忠喬が掛川藩から尼崎藩に入り、以後桜井松平氏が7代続いて明治維新に至った。
青山氏と桜井松平氏の時代に尼崎城は度々改築・修築が行われ、城下町も新設された。弘化3年(1846年)には本丸御殿が焼失したが、翌年には再建された。
明治6年(1873年)、尼崎城は廃城となって城の建造物は売却・取り壊しが行われた。本丸御殿の一部は深正院の本堂として移築されていたが、戦災で焼失した。
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尼崎城は大物川と庄下川が大阪湾に注ぐ砂州を利用して築かれ、河口付近の堤防に築かれた本丸の周囲を輪郭式に曲輪が囲み、曲輪間を広い水堀がめぐっていた。
本丸は方形で北東隅に四重四階の複合式天守があり、他の三方隅には巳の櫓、伏見櫓、塩噌櫓が建てられ多門櫓が接続されていた。
本丸の大手は南に向いており、西には搦手御門が置かれ、幅27メートル前後の内堀で囲まれた。搦手御門から橋で内堀を渡ると二の丸につながり、二重櫓2基、三重櫓1基が置かれた。大手門を通ると南浜に至り、二重櫓2基、平櫓1基があった。
外堀は東の大物川、西の庄下川を天然の堀として縄張に組み込まれ、北の堀と連結された。南の外堀は大阪湾の海水を引き込み、その外側に城下町が広がっていた。
全体としては本丸、二の丸、松の丸、南浜、西三の丸、東三の丸が時計回りで螺旋状に並び、[[江戸城]]に類似した堂々たる縄張だった。
明治時代以降、城の建物は払い下げられ、石垣は取り壊されて尼崎港防波堤に利用され、堀も西の外堀にあたる庄下川を残して埋め立てられたため、現在遺構はほぼ残っていない。

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|所在地|兵庫県尼崎市|
|現存状態|なし|
|再建物|復元天守(現在工事中)|
|城郭構造|輪郭式平城|
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