尻八館 のバックアップソース(No.2)
*現実の城情報 [#information]
現在尻八館と呼ばれている城は、青森市から北西に16km、津軽半島の中央に走る津軽山地の尾根上180mにある城である。
しかし、この城の名前が「尻八館」という根拠は、[[乳井城]]の乳井福王寺氏を討った暦応2年/延元4年(1339年)曽我貞光書状写しに「尻八楯打入」とあり、
昭和18~20年に纏められた『津軽諸城の研究』の中で「シリベ」とある後潟の地とされた。
だが、これは誤読で実際は「尻引楯」が正しいことが分かり、津軽鼻和郡尻引郷にある津軽安藤氏の居城が正しい地である。
この誤った呼称が続き、現在は「伝尻八館」とされているが、いずれ新しい名前が付けられると思われる。
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鎌倉時代、津軽は北条得宗領(直轄地)で「津軽守護人」と称されていたのが津軽安藤氏である。
寛喜2年(1230年)頃アイヌのチャシを土台として、その安藤氏によって築かれたと云われる。
十三湊を拠点とし国内各地や中国・朝鮮と貿易を行い、和同開珎等の古銭や青磁・白磁が多数発掘されており、
当時流行していた中国的文化教養を身に付けていたと思われる。この城が注目されたのも、砧青磁香炉が見つかったのが契機である。
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だが南北朝時代、南朝方に付いた安藤氏は勢力を弱め、一族を纏めた南部氏が津軽に展開してくると争いとなった。
外ヶ浜(津軽半島の陸奥湾側)は津軽安藤氏の縁の土地で防衛のために「伝尻八館」がこの頃に築かれた説もあり、遺物もこの15世紀に集中している。
南部氏との争いは延徳3年(1491年)まで続いた結果、津軽安藤氏は津軽を追われ蝦夷へ逃れ蠣崎氏の祖となったとも云う。
なお、津軽安藤氏と鎌倉北条得宗家に仕えた[[檜山秋田安東氏>檜山城]]とは全くの別物であったが、後世津軽安藤氏と檜山秋田安東氏が混在されてしまった。

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|所在地|青森県青森市後潟|
|現存状態|廃城|
|城郭構造|階郭式山城|

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