小高城 のバックアップの現在との差分(No.3)
現実の城情報相馬中村城・中村舘が言及する城。 中世を通じて行方郡を所領とした陸奥相馬氏の本拠。相馬氏は下総の豪族・千葉氏庶流の相馬師常が、下総の相馬郡相馬御厨を相続して相馬姓を名乗ったことに始まる。 相馬氏第4代胤村の死後に所領相続をめぐって対立が起こり、対立が激化した鎌倉時代後期に第6代重胤は陸奥に下向し、相馬氏一族の争論で鎌倉幕府が重胤に発給した文書に「小高孫五郎」とあることから、小高が本拠だったとされる。 南北朝の争乱が続く建武3年(1336年)頃、北朝方についた重胤は小高堀内への南朝方の侵攻に備え、次男の光胤に宛てた書状に「奥州行方郡小高堀内構城郭」とあるように、光胤に小高城を築かせた。 当時小高堀内には重胤の堀内館があり、これを改修する形で築城が行われた。これは下野国の小山城とともに、日常的に使われていた屋敷を緊急時に要塞化した事例として注目される。 重胤は鎌倉で南朝方の北畠顕家と戦って討死し、顕家の奉行である広橋経泰が小高城を攻撃したが、光胤はこれを撃退した。 続きをクリックで表示 この小高城での攻防戦に関して、建武4年(1337年)の第7代親胤の子・胤頼の着到状には「東海道為小高楯到合戦」と記されている。また暦応2年(1339年)の胤頼の軍忠状には、「顕家卿攻小高城之時」に相馬氏の一族が多く討ち取られたとある。そして重胤の子息の軍忠状にも小高城では一族が討死するほどの激戦があり、「国中静謐」のために「屋形」に「城郭」を構えたとしている。 小高城は小高川北岸の河岸段丘が南に張り出した標高約20メートルの丘陵上に立地し、小高川と湿地帯によって三方を囲まれていたため、紅梅山浮舟城とも呼ばれた。
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