小金城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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千葉県松戸市の城。別名を大谷口城・開花城。[[国府台城]]のすぐ北に位置し、同様に水陸の要衝だった。
下総千葉氏の庶流で、小金周辺を拠点に東葛地域に勢力を伸ばした高城氏の城。高城胤吉が天文6年(1537年)に築城したのち3代約60年続いた。
完成を祝って開かれた宴は、胤吉の主君であり義兄(妻の兄)でもある千葉氏の当主千葉昌胤を迎えた盛大なものであったという。
東西800m・南北600mに達する下総最大級の規模を持つ平山城だったが、現在は都市化・開発により残る遺構は少ない上に年々破壊が進んでいる。
城の東側で丘陵が狭くなっている部分を大手口とし、現在の北小金駅の周辺が城下町・宿場町・門前町を兼ねた小金宿として発展した。

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享徳の乱以降、高城氏は同じく千葉氏庶流の原氏の家臣となって小金を領していたが、胤吉は千葉昌胤の信任を得て直接重用されるようになった。
この時期の千葉氏は古河公方・小弓公方・北条氏の間で揺れている時期で、小金城築城のころには小弓公方方について古河公方と対立していた。
その古河公方に対抗して太日川(現在の江戸川)の水運の要地に近く、かつ低地部分を見晴らせる入り組んだ丘陵上に築いたのが小金城である。
又は小金城の成立は二段階に分かれ、台地の突端側に小金城の西半分にあたる城が元々築かれ、それを拡張したのが高城胤吉とする説もある。
または小金城の成立は二段階に分かれ、台地の突端側に小金城の西半分にあたる城が元々築かれ、それを拡張したのが高城胤吉とする説もある。
この説によれば元となった小金城は原氏、あるいはその原氏の重臣格の高城氏によってその勢力圏の西側を抑える為に築かれたとする。
いずれにしろ、胤吉が完成を祝った天文6年の末、千葉昌胤は小弓公方足利義明から離反。原氏・高城氏もこれに従い古河公方方に転じた。
いずれにしろ、胤吉が完成を祝った天文6年(1537年)の末、千葉昌胤は小弓公方足利義明から離反。原氏・高城氏もこれに従い古河公方方に転じた。
翌年に第一次国府台合戦が起こり、高城胤吉と千葉昌胤は小金城を拠点に国府台の小弓公方と対峙・牽制して北条勢を支援し、勝利に貢献した。
その後高城氏は千葉家家中からの独立色を強めて下総と武蔵の中継地点である東葛地域を治めるようになり、小金はその主城として栄えた。

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永禄年間(1560年代)には上杉謙信に備えて((ただし、一時謙信方に転じていた時期もある))改修が加えられ、また謙信に古河御所を追われた古河公方足利義氏を一時小金城に迎えている。
永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦でも高城胤吉・胤辰親子(この前後に家督継承)は小金城を拠点に国府台城の里見勢を妨害・攻撃した。
永禄9年(1566年)上杉謙信が下総に侵攻。小金城も包囲され籠城するが、謙信が[[臼井城]]での大敗で撤退するまで耐え抜いた。
永禄9年(1566年)、上杉謙信が下総に侵攻。小金城も包囲され籠城するが、謙信が[[臼井城]]での大敗で撤退するまで耐え抜いた。
このころを境に高城氏は完全に北条家臣団に組み込まれて「他国衆」として分類され、小金城は北条家の常陸方面への進出拠点となった。
高城胤辰は天正壬午の乱の最中に病没し、息子の胤則が家督を継ぐ。小田原攻めの時には小金城に一部を残して[[小田原城]]に籠もった。
小金城は豊臣勢の浅野長政に攻められ開城する。この時胤則は敗北を悟り、密かに使者を小田原の小金城に送って城を浅野に明け渡させた。
徳川家康の関東移封に伴い、街道筋かつ水運の要衝だった小金城には家康の五男武田信吉が入城したが、文禄元年(1592年)に佐倉((本佐倉城下・大堀陣屋))に移り小金城は廃城となった。

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|所在地|千葉県松戸市小金|
|現存状態|土塁、堀|
|城郭構造|平山城|

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***城郭構造

JR常磐線北小金駅と流鉄流山線小金城址駅の間の丘陵一つを丸ごと城とした。入り組んだ地形を活かして郭が配置され防御力も高かった。
丘陵の突端側、南西部に本城(本丸)を置き、その周りに中城、馬場・馬屋曲輪を置く。この辺りまでを旧小金城とする説もある。
東の大手口以外に南北の谷津に虎口を三つ(大谷口、金杉口、達磨口)持ち、その虎口を防御するために更に曲輪が配置されていた。
しかし前述の通り都市化による開発が進み遺構は乏しい。昭和40年代頃まではよく残っていたというが、その後特に保全が図られず現在に至る。
大規模だった城跡のごく一部だけが大谷口歴史公園として整備され、発掘された畝掘・障子掘・土塁を復元したが管理状態は極めて悪い。
畝掘や障子掘は後北条氏系の城郭によく見られる技法であり、北条氏傘下で影響を受けて作られた遺構であることがわかる。
ちなみに大谷口は住居表示上の地名で、城内としては金杉口に位置する。大谷口は金杉口とは逆側の虎口の名前である。
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また周辺の向台・殿平賀・中金杉(廣徳寺)に出城(砦)があり、平賀と向台からは屋敷跡が出土した。やや離れた支城に幸田砦、前ヶ崎城がある。
東の根木内城は小金城に移る前の高城氏居城で、移った後も支城として使われた。さらに前にはその南の栗ヶ沢に館を築いていた。
前述の廣徳寺は高城氏の菩提寺だったほか、近隣の本土寺・東漸寺も有事には拠点として使われ、小田原征伐のときには被害を受けている。
全体として現在の北小金駅・小金宿を中心として高城氏の要塞地帯であったのが地図を見ていけば理解できるだろう。

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