Backup diff of 小田城 vs current(No. 6)

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*現実の城情報 [#information]

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城主の小田氏治が幾度も戦に敗れ奪われるも、そのたびに復帰したという稀有な戦歴を持つ城。
桜川沿いの湿地帯に単郭方形館として築かれた平城で、戦国時代には複雑に入り組んだ曲輪を土塁と水堀が囲み、北側の丘陵に築かれた前山城を詰城として、城下を堀と土塁で取り囲んだ総構のような外郭も備えられた。
小田城の築城時期は明らかではなく、城主の小田氏が小田を本拠とするのは初代の八田知家から、小田を名乗ることが確認できる四代時知からなど諸説ある。
小田氏の祖八田知家は、藤原北家の流れをくむ宇都宮氏と同系の氏族で、源頼朝の信任が篤く常陸守護に任じられた。
しかし鎌倉時代後半には北条氏の進出により所領が減少し、同族の宍戸氏に移っていた守護職も鎌倉時代末期頃には完全に失った。
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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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南北朝時代、暦応元年(1338年)に小田氏の七代治久は南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東での拠点となった。
小田城では親房が『神皇正統記』を執筆したことも有名である。
しかし小田城は翌年から北朝方の攻撃を受け、同4年(1341年)に治久は降伏し北朝方に従った。
八代孝朝は足利氏への忠誠によって旧領の大半を回復し、関東では最大級の大名となった。
またこの頃に小田氏は関東で最も格式の高い名家を指す「八屋形」の1つに数えられた。
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戦国時代には十三代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、十四代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦った。
政治から十五代氏治の初期が、小田氏にとっては戦国時代での最盛期だった。
しかし16世紀中頃には後北条氏と佐竹氏に挟まれ、小田城は何度も戦闘の舞台となった。

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|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|茨城県つくば市小田|
|現存状態|曲輪、堀、土塁、虎口|
|城郭構造|輪郭式平城|

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&color(White,Maroon){戦国の不死鳥・小田氏治(クリックで表示)};
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**戦国の不死鳥・小田氏治
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小田城は弘治2年(1556年)に後北条氏の支援を得た結城氏によって&color(Red){落城};し、氏治は土浦城へと逃れた。
その後氏治は後北条氏と和解し、支援を失った結城氏を攻めて小田城は&color(blue){奪還};された。
弘治3年(1557年)、氏治は佐竹氏とともに小田領に侵攻した多賀谷氏の下妻城を攻撃したが&color(Red){敗れ};、小田城から土浦城へと逃れた。
小田城は永禄2年(1559年)、土浦城主の菅谷政貞によって&color(blue){奪回};された。
氏治は永禄5年(1562年)に後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田城を攻め、同7年(1564年)に&color(Red){落城};し氏治は藤沢城に逃れた。
翌年に佐竹義昭が没すると、氏治は佐竹義篤が守っていた小田城を攻撃し&color(blue){奪還};するが、その翌年に謙信によって小田城を攻められ&color(Red){敗走};した。
その後永禄11年(1568年)に氏治は謙信に降伏し小田城に&color(blue){戻る};ことができた。
しかし氏治は天正元年(1573年。永禄12年(1569年)説は誤伝か)の手這坂の合戦で佐竹義重・太田資正に&color(Red){敗れ};、小田城を奪われ土浦城・藤沢城へと逃れたのを最後に、小田城には戻れなくなった。
***戦国の不死鳥・小田氏治 [#r683c950]

小田氏治とは、鎌倉時代より続く小田氏の15代当主であるが、小田城をめぐる戦いで連戦連敗するも何故か何度も復帰する戦国の不死鳥(あるいは常陸の不死鳥)として知られている。
八田知家を祖とし、小田城周辺を300年以上守護する名門・小田家に生まれた氏治は、父・政治が天文17年(1548年)に死去すると、小田家第15代当主となった。
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時代は少し遡り、天文15年(1546年)に行われたとされる[[河越城>川越城]]の戦い(河越夜戦)にて氏治は、足利晴氏に味方した政治に従い攻城側として初陣を飾ったが、後北条軍を相手に歴史的な大逆転による&color(Red){敗北};を経験したという。
弘治2年(1556年)には後北条氏の支援を得た結城政勝を迎え撃つも海老ヶ島の戦いで&color(Red){敗れる};と、小田城は氏治が帰陣するのを待たずに海老ヶ島城とともに&color(Red){落城};し、居城を失った氏治は[[土浦城]]へと逃れた。
その後氏治は後北条氏と和解し、支援を失った結城氏を攻めて小田城を&color(blue){奪還};した。ただし、これは攻め落としたと言うより、小田城を守り切れないと悟った政勝が城を捨てたというのが真相であると言われる。
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弘治3年(1557年)、氏治は佐竹義昭とともに小田領に侵攻した多賀谷政経の下妻城を攻撃したが&color(Red){敗れ};、小田城も&color(Red){落城};すると土浦城へと逃れた。(黒子の戦い)
その後、何故か小田城を&color(blue){取り返している};が、永禄元年(1558年)、再び義昭と政経に攻められて小田城は&color(Red){落城};した。
しかし小田城は、永禄2年(1559年)、土浦城主の菅谷政貞によって&color(blue){奪回};された。
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永禄2年(1559年)には、政勝とその子・明朝が相次いで亡くなったのを好機として[[結城城]]を攻めたが、鬼真壁の異名を持つ真壁氏幹が籠城方の援軍として駆けつけると、小田軍は総崩れとなり&color(Red){敗北};した。
さらにその勢いのまま、海老ヶ島城と北条城が&color(Red){奪われてしまい};、『関八州古戦録』では「無用の戦」と評された。
同年、氏治は大掾貞国という武将を攻めようと、周囲の大名に援軍を頼んだが誰にも相手にされず、逆に攻め込まれるとふたつの城を&color(Red){奪われた};という。
氏治は一矢報いるために、大掾方の手賀沼城を攻めたが攻め落とせず、そうこうしているうちに留守にしている領地に佐竹軍や結城軍が攻め込もうとしていることを知ったが、行動を決めかねているうちに帰路を塞がれ、命からがら&color(Red){敗走};した。
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氏治は永禄5年(1562年)には後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田家の領地に攻め込み、何故か川を背にした背水の陣で迎え撃った氏治は&color(Red){敗走};、小田城は同7年(1564年)に&color(Red){落城};し氏治は藤沢城に逃れた。(山王堂の戦い)
その後、氏治は上杉軍の留守を狙って小田城を&color(blue){奪還};するも、三ヶ月後には佐竹軍によって&color(Red){攻め落とされた};。
翌年に佐竹義昭が没すると、氏治はその隙をついて佐竹義廉が守っていた小田城を攻撃し&color(blue){奪還};するが、その翌年に佐竹氏を継いだ佐竹義重が謙信に命じられて攻め寄せると、これに小田城は&color(Red){攻め落とされた};。
その後、永禄11年(1568年)に氏治は謙信に降伏し小田城に&color(blue){戻る};ことができた。
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永禄12年(1569年)、小田城は佐竹義重・太田資正・真壁氏幹に&color(Red){攻め落とされ};、氏治は藤沢城に逃れるも、菅谷政貞の活躍によって小田城は&color(blue){奪回};された。
氏治は元亀3年(1572年)の大晦日には毎年恒例の連歌会を開いたが、家臣とともに酔いつぶれてしまい、そこに急襲した太田資正の攻撃によって小田城が&color(Red){落城};するも、木田余城に集めた兵により即座に&color(blue){奪還};した。
しかし、その二ヶ月後の元亀4年(1572年)、家臣二人が裏切ろうとしているという噂を知ると、菅谷政貞・信田重成が「まずは使者を送って確かめるように」と進言したにもかかわらず出撃したが、それは太田資正の謀略であり、太田資正・真壁氏幹らに攻められ&color(Red){敗走};。(手這坂の戦い)
小田城に逃げ帰ろうとしたものの、太田資正の子、梶原政景が小田軍の振りをして侵入して、小田城は&color(Red){落城};。その後、氏治は小田城に戻ることはできなかった。
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天正16年(1588年)には佐竹義重が攻め込み、氏治は手子生城を守ったものの、籠城すべきと進言する家臣を振り切って、野戦に打って出ると挟撃に遭って&color(Red){敗走};した。(手子生城の戦い)
氏治は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めを契機に、奪還のため小田城を攻めたが、太田資正が籠城方の援軍として駆けつけると&color(Red){敗れ};、戦国大名としての小田氏は滅亡した。(樋ノ口の戦い)
ただし、氏治は徳川家康の次男・結城秀康の家臣となると、関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)まで生き抜き、越前で没した。
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以上、氏治の戦績については諸説あるが、長谷川ヨシテル(れきしクン)氏の著作『ポンコツ武将列伝』の記述に基づき解説した。
その後の小田城は佐竹氏の城郭となり、梶原政景、小場義成が在城し、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田転封後は廃城となった。

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