小田城 のバックアップ差分(No.5)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)

小田氏治は何度も小田城を奪われるもそのたびに復帰するという稀有な戦歴を持ち、城と言うよりは城主に対して一部熱狂的な人気がある。
しかしながら、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、秀吉軍に加勢しなかったことを理由に、戦国大名としての小田氏は滅亡した。
城主の小田氏治が幾度も戦に敗れ奪われるも、そのたびに復帰したという稀有な戦歴を持つ城。しかし、最終的には復帰できなかった。
#br
小田城の築城時期は明らかではなく、城主の小田氏が小田を本拠とするのは初代の八田知家から、小田を名乗ることが確認できる四代時知からなど諸説ある。
小田氏の祖八田知家は、藤原北家の流れをくむ宇都宮氏と同系の氏族で、源頼朝の信任が篤く常陸守護に任じられた。
しかし鎌倉時代後半には北条氏の進出により所領が減少し、同族の宍戸氏に移っていた守護職も鎌倉時代末期頃には完全に失った。
#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}}
#style(class=submenu){{{

南北朝時代、暦応元年(1338年)に小田氏の七代治久は南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東での拠点となった。
小田城では親房が『神皇正統記』を執筆したことも有名である。
しかし小田城は翌年から北朝方の攻撃を受け、同4年(1341年)に治久は降伏し北朝方に従った。
八代孝朝は足利氏への忠誠によって旧領の大半を回復し、関東では最大級の大名となった。
またこの頃に小田氏は関東で最も格式の高い名家を指す「八屋形」の1つに数えられた。
#br
戦国時代には十三代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、十四代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦った。
政治から十五代氏治の初期が、小田氏にとっては戦国時代での最盛期だった。
しかし16世紀中頃には後北条氏と佐竹氏に挟まれ、小田城は何度も戦闘の舞台となった。

}}}

|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|茨城県つくば市小田|
|現存状態|曲輪、堀、土塁、虎口|
|城郭構造|輪郭式平城|

#br
#style(class=submenuheader){{{
&color(White,Maroon){戦国の不死鳥・小田氏治(クリックで表示)};
}}}
#style(class=submenu){{{

**戦国の不死鳥・小田氏治

小田城は弘治2年(1556年)に後北条氏の支援を得た結城氏によって&color(Red){落城};し、氏治は土浦城へと逃れた。
その後氏治は後北条氏と和解し、支援を失った結城氏を攻めて小田城は&color(blue){奪還};された。
弘治3年(1557年)、氏治は佐竹氏とともに小田領に侵攻した多賀谷氏の下妻城を攻撃したが&color(Red){敗れ};、小田城から土浦城へと逃れた。
小田城は永禄2年(1559年)、土浦城主の菅谷政貞によって&color(blue){奪回};された。
氏治は永禄5年(1562年)に後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田城を攻め、同7年(1564年)に&color(Red){落城};し氏治は藤沢城に逃れた。
翌年に佐竹義昭が没すると、氏治は佐竹義篤が守っていた小田城を攻撃し&color(blue){奪還};するが、その翌年に謙信によって小田城を攻められ&color(Red){敗走};した。
その後永禄11年(1568年)に氏治は謙信に降伏し小田城に&color(blue){戻る};ことができた。
しかし氏治は天正元年(1573年。永禄12年(1569年)説は誤伝か)の手這坂の合戦で佐竹義重・太田資正に&color(Red){敗れ};、小田城を奪われ土浦城・藤沢城へと逃れたのを最後に、小田城には戻れなくなった。
その後の小田城は佐竹氏の城郭となり、梶原政景、小場義成が在城し、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田転封後は廃城となった。

}}}

*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS