小田城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

【歴史】
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城主の小田氏治が幾度も戦に敗れ奪われるも、そのたびに復帰したという稀有な戦歴を持つ城。
桜川沿いの湿地帯に単郭方形館として築かれた平城で、戦国時代には複雑に入り組んだ曲輪を土塁と水堀が囲み、北側の丘陵に築かれた前山城を詰城として、城下を堀と土塁で取り囲んだ総構のような外郭も備えられた。
小田城の築城時期は明らかではなく、城主の小田氏が小田を本拠とするのは初代の八田知家から、小田を名乗ることが確認できる四代時知からなど諸説ある。
小田氏の祖八田知家は、藤原北家の流れをくむ宇都宮氏と同系の氏族で、源頼朝の信任が篤く常陸守護に任じられた。
しかし鎌倉時代後半には北条氏の進出により所領が減少し、同族の宍戸氏に移っていた守護職も鎌倉時代末期頃には完全に失った。
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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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南北朝時代、暦応元年(1338年)に小田氏の七代治久は南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、小田城は南朝方の関東での拠点となった。
小田城では親房が『神皇正統記』を執筆したことも有名である。
しかし小田城は翌年から北朝方の攻撃を受け、同4年(1341年)に治久は降伏し北朝方に従った。
八代孝朝は足利氏への忠誠によって旧領の大半を回復し、関東では最大級の大名となった。
またこの頃に小田氏は関東で最も格式の高い名家を指す「八屋形」の1つに数えられた。
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戦国時代には十三代治孝が弟顕家に殺害されるという一族の内紛を経て、十四代政治は再び勢力を拡大させ江戸・大掾・結城氏などと戦った。
政治から十五代氏治の初期が、小田氏にとっては戦国時代での最盛期だった。
しかし16世紀中頃には後北条氏と佐竹氏に挟まれ、小田城は何度も戦闘の舞台となった。

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|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|茨城県つくば市小田|
|現存状態|曲輪、堀、土塁、虎口|
|城郭構造|輪郭式平城|

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小田城は弘治2年(1556年)に後北条氏の支援を得た結城氏によって落城し、氏治は土浦城へと逃れた。
その後氏治は後北条氏と和解し、支援を失った結城氏を攻めて小田城は奪還された。
弘治3年(1557年)、氏治は佐竹氏とともに小田領に侵攻した多賀谷氏の下妻城を攻撃したが敗れ、小田城から土浦城へと逃れた。
小田城は永禄2年(1559年)、土浦城主の菅谷政貞によって奪回された。
氏治は永禄5年(1562年)に後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田城を攻め、同7年(1564年)に落城し氏治は藤沢城に逃れた。
翌年に佐竹義昭が没すると、氏治は佐竹義篤が守っていた小田城を攻撃し奪還するが、その翌年に謙信によって小田城を攻められ敗走した。
その後永禄11年(1568年)に氏治は謙信に降伏し小田城に戻ることができた。
しかし氏治は永禄12年(1569年)の手這坂の合戦で佐竹義重・太田資正に敗れ、小田城を奪われ土浦城・藤沢城へと逃れたのを最後に、小田城には戻れなくなった。
その後の小田城は佐竹氏の城郭となり、梶原政景、小場義成が在城し、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田転封後は廃城となった。
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&color(White,Maroon){戦国の不死鳥・小田氏治(クリックで表示)};
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***戦国の不死鳥・小田氏治 [#r683c950]

小田氏治とは、鎌倉時代より続く小田氏の15代当主であるが、小田城をめぐる戦いで連戦連敗するも何故か何度も復帰する戦国の不死鳥(あるいは常陸の不死鳥)として知られている。
八田知家を祖とし、小田城周辺を300年以上守護する名門・小田家に生まれた氏治は、父・政治が天文17年(1548年)に死去すると、小田家第15代当主となった。
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【城郭構造】
小田城は茨城県つくば市北部に位置し、筑波山地から続く宝篋山の南裾、桜川左岸の低位段丘上に立地する。
歴史的な重要性や遺存状態が良好な平城跡であることから、昭和10年(1935年)6月7日に国の史跡指定を受けた。
指定面積は約21万5000平方メートルで、東西約500メートル、南北約600メートル以上ある広大な平城跡である。
史跡指定地がおよその城郭部分にあたり、その外側に町場などの外郭、さらに小田城の北側に位置する前山城も囲い込んだ総構えであったとの説もある。
つくば市では史跡の保存整備事業を行っており、平成8年(1996年)度から公有化を、平成9年(1997年)から地下状況を調べるための確認調査が実施された。
平成16年(2004年)度から平成20年(2008年)度まで保存整備の対象とした本丸跡とその周辺で、面的に調査を行う本発掘調査が実施され、現在は保存整備工事と、史跡南半の本丸跡周辺での確認調査が継続されている。
時代は少し遡り、天文15年(1546年)に行われたとされる[[河越城>川越城]]の戦い(河越夜戦)にて氏治は、足利晴氏に味方した政治に従い攻城側として初陣を飾ったが、後北条軍を相手に歴史的な大逆転による&color(Red){敗北};を経験したという。
弘治2年(1556年)には後北条氏の支援を得た結城政勝を迎え撃つも海老ヶ島の戦いで&color(Red){敗れる};と、小田城は氏治が帰陣するのを待たずに海老ヶ島城とともに&color(Red){落城};し、居城を失った氏治は[[土浦城]]へと逃れた。
その後氏治は後北条氏と和解し、支援を失った結城氏を攻めて小田城を&color(blue){奪還};した。ただし、これは攻め落としたと言うより、小田城を守り切れないと悟った政勝が城を捨てたというのが真相であると言われる。
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広大な小田城では本丸を中心にいくつもの曲輪が取り囲む構造となっている。
曲輪群を囲む堀の幅は広い所で20~30メートル、狭くても15メートルほどと規模が大きい。
本丸は中央やや南に位置する東西約135メートル、南北約150メートルの長方形の曲輪で、堀際に土塁が巡り、各隅は鉄道で破壊された北西を除き櫓台状にひときわ高くなっている。
本丸の北堀から南側は市街化調整区域であったことから、比較的城郭の痕跡が残っており、低い部分は堀で高い部分が曲輪の跡である。
しかし本丸の東西両脇の曲輪は現況よりも小さく分割されていたことが発掘調査で明らかになっており、規模の小さい堀などは廃城後に早い段階で埋められたようだ。
本丸南東の曲輪は東西約90メートル、南北約100メートルの方形状で、周囲に土塁の痕跡が残り、かつて方形の館がいくつも存在していた時期の名残で「信田郭」の地名が残る。
本丸南側の曲輪には伝統山と呼ばれる土塁跡あるいは古墳の痕跡が残っている。
弘治3年(1557年)、氏治は佐竹義昭とともに小田領に侵攻した多賀谷政経の下妻城を攻撃したが&color(Red){敗れ};、小田城も&color(Red){落城};すると土浦城へと逃れた。(黒子の戦い)
その後、何故か小田城を&color(blue){取り返している};が、永禄元年(1558年)、再び義昭と政経に攻められて小田城は&color(Red){落城};した。
しかし小田城は、永禄2年(1559年)、土浦城主の菅谷政貞によって&color(blue){奪回};された。
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小田城の北側はほとんどが住宅となっているが、航空写真と対比すると地割は明確に残っており、また土塁や堀の跡も部分的に確認することができる。
土塁が最もよく残っているのが本丸東側の曲輪の北側で、高さ約4メートルで土塁上には小社が祀られている。
周囲が私有地のため立ち入ることはできないが、本丸の南東櫓台(涼台)付近からもはっきりと望むことができる。
また江戸時代には陣屋が置かれた小田小学校の西側や、本丸北西の曲輪の北東側でも土塁が良好に残っている。
堀も市街地内ではほとんど埋められているが、北西端の曲輪の北堀からその西側にかけてや、本丸北西の北堀などが部分的に残っている。
永禄2年(1559年)には、政勝とその子・明朝が相次いで亡くなったのを好機として[[結城城]]を攻めたが、鬼真壁の異名を持つ真壁氏幹が籠城方の援軍として駆けつけると、小田軍は総崩れとなり&color(Red){敗北};した。
さらにその勢いのまま、海老ヶ島城と北条城が&color(Red){奪われてしまい};、『関八州古戦録』では「無用の戦」と評された。
同年、氏治は大掾貞国という武将を攻めようと、周囲の大名に援軍を頼んだが誰にも相手にされず、逆に攻め込まれるとふたつの城を&color(Red){奪われた};という。
氏治は一矢報いるために、大掾方の手賀沼城を攻めたが攻め落とせず、そうこうしているうちに留守にしている領地に佐竹軍や結城軍が攻め込もうとしていることを知ったが、行動を決めかねているうちに帰路を塞がれ、命からがら&color(Red){敗走};した。
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小田城には小字や通称、また絵図などの地名に中世の名残をとどめたものが多く、これによってある程度復元することもできる。
本丸には「城内」、南東部には「涼台」の小字名が付き、北虎口には「大手口」、南西部には「臆病口」「泉水」「御城」などがある。
調査でも「臆病口」では南西虎口が、「泉水」では池跡が見つかっている。
本丸東側の曲輪では「一ノ木戸」、北端の曲輪では「馬場」、その西側の曲輪の北側では丸馬出を連想させる「半月堀」、北西端の曲輪の外側には「戸張」がある。
「一ノ木戸」は「大町」を通る東がかつての大手であったことを連想させ、この大町からの道は宝篋山へまっすぐに伸びており、当初の軸線だったと考えられる。
その他にも各曲輪に「南館」「丹後屋敷」「新左エ門屋敷」「太郎右エ門屋敷」「信田郭」、本丸西側の曲輪の西外側に「田土部郭」があり、有力家臣や一族の屋敷地がああたとされる。
このうち、小田氏の有力家臣には信田氏や田土部氏がおり、これらと関係した可能性が高い。
氏治は永禄5年(1562年)には後北条氏に従ったが、氏治の離反を知った上杉謙信は佐竹義昭とともに小田家の領地に攻め込み、何故か川を背にした背水の陣で迎え撃った氏治は&color(Red){敗走};、小田城は同7年(1564年)に&color(Red){落城};し氏治は藤沢城に逃れた。(山王堂の戦い)
その後、氏治は上杉軍の留守を狙って小田城を&color(blue){奪還};するも、三ヶ月後には佐竹軍によって&color(Red){攻め落とされた};。
翌年に佐竹義昭が没すると、氏治はその隙をついて佐竹義廉が守っていた小田城を攻撃し&color(blue){奪還};するが、その翌年に佐竹氏を継いだ佐竹義重が謙信に命じられて攻め寄せると、これに小田城は&color(Red){攻め落とされた};。
その後、永禄11年(1568年)に氏治は謙信に降伏し小田城に&color(blue){戻る};ことができた。
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平成9年(1997年)度から行ってきた確認調査の成果から、小田城は盛土整地などの改修を行いながら、鎌倉時代から戦国時代まで使用され続けてきたことが判明した。
遺構面は上層から6面にまとめることができ、第1面は戦国時代末期の16世紀後半、第2面は戦国時代の15世紀末~、第3面は室町・戦国時代の15世紀半ば~、第4面は鎌倉・南北朝・室町時代の14世紀~、第5面は鎌倉時代の13世紀~、第6面は古代以前の~12世紀となっている。
第5面は盛土整地が行われる以前の遺構面で石敷きや石列が確認された。
第4面は広範囲に黄色土を盛って整地が行われた遺構面で、この時期に南から東には小石が敷かれた。また下幅2メートル前後の堀跡が戦国時代本丸跡の内側線と同じ位置で方形に巡り、この時期に以後の小田城本丸の原形が造られた。
第3面では本格的な土塁が造られ、以後土塁は内側へ、堀は外側へと拡張されていく。
第2面では北側で黄色土を盛って大規模な整地を行うことにより、北側の盛土部分と南側との間には段差ができ、南半の石敷部では大きな池跡が東・西に位置していた。
永禄12年(1569年)、小田城は佐竹義重・太田資正・真壁氏幹に&color(Red){攻め落とされ};、氏治は藤沢城に逃れるも、菅谷政貞の活躍によって小田城は&color(blue){奪回};された。
氏治は元亀3年(1572年)の大晦日には毎年恒例の連歌会を開いたが、家臣とともに酔いつぶれてしまい、そこに急襲した太田資正の攻撃によって小田城が&color(Red){落城};するも、木田余城に集めた兵により即座に&color(blue){奪還};した。
しかし、その二ヶ月後の元亀4年(1572年)、家臣二人が裏切ろうとしているという噂を知ると、菅谷政貞・信田重成が「まずは使者を送って確かめるように」と進言したにもかかわらず出撃したが、それは太田資正の謀略であり、太田資正・真壁氏幹らに攻められ&color(Red){敗走};。(手這坂の戦い)
小田城に逃げ帰ろうとしたものの、太田資正の子、梶原政景が小田軍の振りをして侵入して、小田城は&color(Red){落城};。その後、氏治は小田城に戻ることはできなかった。
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第1面にあたる戦国時代後半の本丸跡については面的に調査を行っているため詳細が判明している。
堀跡は上幅約20~30メートル、深さ約4~5メートルで、全て障子堀となっている。
その内側に基底幅約10~15メートルの土塁跡が巡り、南東と北東は櫓台状に突出している。
虎口跡は南西・北・東で確認され、南西虎口跡では約3.2メートル四方の門跡と両側面に石垣が見つかり、堀跡の内部には二列の橋脚跡が整然と並ぶ橋跡と、その外側に約50メートル四方の馬出跡が発見された。
東虎口跡では2回の改修と堀跡内の複数の橋脚跡から、長期間にわたって使用したことがわかった。
北虎口跡では木橋をやや東へずらして土橋へ改修したことが確認された。
南西虎口の構築、東・北虎口の最後の改修は、第2面から第1面への改修に対応するものと考えられる。
天正16年(1588年)には佐竹義重が攻め込み、氏治は手子生城を守ったものの、籠城すべきと進言する家臣を振り切って、野戦に打って出ると挟撃に遭って&color(Red){敗走};した。(手子生城の戦い)
氏治は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めを契機に、奪還のため小田城を攻めたが、太田資正が籠城方の援軍として駆けつけると&color(Red){敗れ};、戦国大名としての小田氏は滅亡した。(樋ノ口の戦い)
ただし、氏治は徳川家康の次男・結城秀康の家臣となると、関ヶ原の戦いの翌年である慶長6年(1601年)まで生き抜き、越前で没した。
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本丸の内部は土塁の内側で東西約100メートル、南北約115メートルのほぼ方形で、建物が集中する北西部(建物域)は大溝によって区画される。
建物域内は東西約70メートル、南北約75メートルで、南や東に比べて高く盛土されており、約30センチメートルの段差がある。
南側は溝で大きく区画され柱穴や礎石が集中し、北側は小区画で焼けた壁土や炭化米が散布するなど、南北で状況が異なっている。
これは南が主殿などの大型建物が位置した空間で、北が倉庫や台所などの空間だからだと考えられる。
溝跡の南は石敷きが広がり、東端と西側に池跡が確認された。東池跡は東西約13メートル、南北約32メートル、西池跡は東西約17メートル、南北約14メートルで、東池跡は戦国時代後期の改修で埋められたと考えられる。
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小田城周辺の状況も遺存状態は良くないが、地名などから推測することができる。
小田城外郭の堀・土塁は『慶長小田城績図』で町場を囲むように描かれるが、江戸時代以降も集落だったため遺存状態は悪く、一部を水路や地割からわずかに推測できるのみとなっている。
その外側には小田集落全体を囲む堀や土塁が『小田古城跡地理図』に記され、空中写真や現況地割からも部分的に確認できる。
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史跡指定地の外側には「西町」「荒宿」「大町」「今宿」「見世屋」「台見世屋」「鍛冶屋敷」「新屋敷」「士屋敷」などの町場に関係した地名が散見される。
「西町」「荒宿」「大町」が外郭内に、それ以外が外郭外となる。
また宝篋山山頂に所在する天文8年(1539年)の板碑銘では「下宿」の存在も確認できる。
小田城の総構えによって囲い込まれたとされる前山城の山裾には「不動下」「諏訪下」「北斗」などがあり、さらに北東の山裾には三村山極楽寺遺跡群に関わる「神宮」「尼寺入」「常願寺」などがある。
前山城の山裾から宝篋山の山裾にかけては大きな寺社が立地する宗教に関連する場であったと推測される。
さらにその外側の小田城への進入路にはそれぞれ「見附門」が構えられ、小規模な土塁や堀があり、神社も祀られていた。
以上、氏治の戦績については諸説あるが、長谷川ヨシテル(れきしクン)氏の著作『ポンコツ武将列伝』の記述に基づき解説した。
その後の小田城は佐竹氏の城郭となり、梶原政景、小場義成が在城し、慶長7年(1602年)の佐竹氏の秋田転封後は廃城となった。

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|所在地|茨城県つくば市小田|
|現存状態|曲輪、堀、土塁、虎口|
|城郭構造|輪郭式平城|


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