小林城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報宮崎県小林市真方。 当初は三ツ山城とも三ノ山城とも呼ばれていたが、島津氏の城に帰すると、島津義弘は、北原氏の居城であった三ツ山城と混同しないようにと、小林村にあったこの城を小林城と改名したのである。 この城の西方から北方、東方へと岩瀬川が囲むように流れ、これが天然の堀となっており、南方はシラス土壌による断崖絶壁で、四方を天然の要害で囲まれた難攻不落の城を形成していた。 続きをクリックで表示 当初は三ツ山城とも三ノ山城とも呼ばれていたが、島津氏の城に帰すると、島津義弘は、北原氏の居城であった三ツ山城と混同しないようにと、小林村にあったこの城を小林城と改名したのである。 この城の西方から北方、東方へと岩瀬川が囲むように流れ、これが天然の堀となっており、南方はシラス土壌による断崖絶壁で、四方を天然の要害で囲まれた難攻不落の城を形成していた。 永禄9年(1566年)、築城開始から約半年後、島津義久・島津義弘・島津歳久が完成前の小林城に攻め込んでくる。 大手口、水ノ手口、窪谷口の三方向から攻め入る島津軍に対し、伊東軍は打って出るも敗退し、戦は籠城戦へと移行して大激戦になったという。 この戦いにより、城の内堀と外堀は死者で溢れ、さらに島津軍が城に火を放ったために城内にいた多くの牛馬が焼死したという。 やがて城の大半が焼け落ち、本丸を残すのみとなったが、当時の城主であった米良重方は弟の矩重と共に奮戦をする。 やがて、須木城からの援軍が到着し、残された城兵と共に島津軍を挟撃し、その結果、島津方の主だった将が討たれ、義弘もまた重傷を受けたために、島津軍は薩摩へと退却するしかなかった。 元亀3年(1572年)、小林城は加久藤城攻略のための伊東軍の出立場所となり、この「木崎原の戦い」で城主であった米良重方は討ち取られる。 天正4年(1576年)、重方の死後城主を務めていた米良矩重が島津氏に寝返り、矩重が治めていた小林城と須木城は、共に島津氏に帰することとなる。 元和元年(1615年)、一国一城令により小林城は廃城となる。
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