安芸高山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報戦国時代、吉川氏とともに「毛利両川」として毛利氏を支えた小早川氏の、300年以上に渡る代々の居城。 小早川氏は相模を本拠とした桓武平氏土肥氏の分家出身の土肥遠平が、小早川の地を本拠に小早川姓を名乗ったことに始まる。 小早川氏は相模を本拠とした桓武平氏土肥氏の分家出身の土肥遠平が、小早川を本拠に小早川姓を名乗ったことに始まる。 遠平は平氏討伐の功で安芸沼田荘の地頭に任命され、遠平の養子・景平がこれを継ぎ、安芸へと移住した。 安芸高山城が築かれたのは建永元年(1206年)、景平の子・茂平の時代で、茂平の死後に木村城を本拠とした一族が分家の竹原小早川氏として分かれる一方で、嫡流は沼田小早川氏として小早川氏の本家となり、引き続き安芸高山城を本拠とした。 続きをクリックで表示 安芸高山城は沼田川東岸の古高山に築かれ、比較的なだらかな山の頂上付近には大きな谷があり、これを挟むような形でほぼ同一の高さで曲輪が直線的に並び、土塁や堀切で防御された。 沼田小早川氏は後醍醐天皇が討幕を図った元弘の変で幕府方についたため、建武の新政で沼田荘を没収されてしまう。 沼田小早川氏は後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕を図った元弘の変の際、小早川朝平が幕府方についたため、その後後醍醐天皇が主導した建武の新政で沼田荘を没収されてしまう。 この時は竹原小早川氏の取りなしで所領が安堵されたが、これにより竹原小早川氏の立場が強化されることになる。 竹原小早川氏は室町時代半ばには沼田小早川氏に匹敵する勢力を築き、応仁の乱では沼田小早川氏が東軍、竹原小早川氏が西軍につき、文明6年(1467年)には沼田小早川敬平が京で戦っている間に竹原小早川弘景が安芸高山城を攻撃するなど、室町時代を通じて激しく対立した。 この両小早川氏を統一したのが毛利元就の三男・隆景で、天文13年(1544年)に竹原小早川氏の興景が跡継ぎが無いまま死ぬと、その養子として竹原小早川氏の家督を継ぎ、天文19年(1550年)には沼田小早川氏の繁平を隠居に追い込んで家督を継いだ。 統一された小早川氏は以後毛利氏の一門として本家を支え、隆景は安芸高山城を居城としていたが、天文21年(1552年)に沼田川の対岸に新たな居城として新高山城を築いたため安芸高山城は廃城となった。 統一された小早川氏は以後毛利氏の一門として本家を支え、隆景は安芸高山城を居城としていたが、天文21年(1552年)に沼田川の対岸に新たな居城として新高山城を築いたため安芸高山城は廃城となった。
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