安芸城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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[[土佐中村城]]の土佐一条氏や本山城の本山氏、[[岡豊城]]の長宗我部氏などと共に「土佐七雄」に数えられる安芸氏の居城。
安芸氏は蘇我赤兄の子孫を称するが詳細は不明で、安芸城は延慶元年(1308年)に安芸親氏が築いたとされる。
応仁の乱後に土佐守護細川氏が衰退すると、土佐では国司である土佐一条氏を筆頭に「土佐七雄」と呼ばれる在地の有力豪族が勢力を拡大し、そのなかでも安芸郡5,000貫を支配する安芸氏は強大な勢力を有していた。
大永6年(1526年)には土佐七雄の一つ香宗我部氏を破り、安芸国虎の代に全盛期を迎えた。

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永禄6年(1563年)、国虎は長宗我部元親が本山氏攻めに出陣した隙を突き、元親の居城である岡豊城を攻撃し落城寸前まで追い詰めたが、岡豊城を守っていた吉田重俊や福留親政らの奮戦で撃退された。
その後土佐一条氏の調停で国虎と元親は和睦するが、永禄12年(1569年)に国虎は和議を破棄し再び元親と敵対した。
国虎は八流の戦いで敗れ、元親に安芸城まで攻め込まれ自害し安芸城は落城、元親は弟の香宗我部親泰を安芸城に入れた。
関ヶ原の戦い後に長宗我部は改易され、土佐には新たに山内一豊が入り、安芸城には五藤為重が城代として入った。
元和元年(1615年)の一国一城令で安芸城が廃城となると、安芸城は安芸土居と改められ引き続き用いられた。
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安芸城は安芸平野の中央部、安芸川西岸の標高39メートルの丘陵上に築かれ、上壇・北二壇目・北三壇目と三段に築かれた曲輪群を主郭とし、南側には南二壇目が配置され、これらが堀切や石垣で守られていた。
城の北側は安芸川が天然の堀となり、残る三方には堀や土塁を築いて丘陵を取り囲んでいた。
五藤氏時代の安芸土居は、安芸城を詰城として山麓に居館を築き、土塁や石垣、表門などが改修・整備された。
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安芸土居は江戸時代を通じて五藤氏が所有し、明治維新で廃城となってからも現在に至るまで五藤氏の子孫が管理している。
平成24年(2012年)には屋敷部分以外が安芸市に寄贈され、土居の周囲の武家屋敷などは「土居廓中」として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定された。

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|所在地|高知県安芸市土居|
|現存状態|石垣、堀、土塁など|
|城郭構造|梯郭式平山城|

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