Backup diff of 安濃津城 vs current(No. 1)

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*現実の城情報 [#information]

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安濃津とは、平安時代より三津七湊の一つとして栄え、伊勢院宮への供米を送る積出港でもあったが、明応7年(1498年)の地震により港としての機能を失った港のこと。
安濃津とは、平安時代より三津七湊の一つとして栄え、伊勢院宮への供米を送る積出港でもあったが、明応7年(1498年)の地震により港としての機能を失った地のこと。
永禄年間(1558年~1570年)、細野藤敦がこの地に築いたのが安濃津城であるが、藤敦の父である藤光が細野城から移るために築いた安濃城とは全くの別物である。
永禄11年(1568年)の織田信長の伊勢侵攻後は、織田忠寛(津田一安)が入城し、その翌年に入城した織田信包により大改修され、本丸から二の丸、三の丸の縄張りに天守、小天守、多くの石垣と堀が築かれた。
『累世記事』によればこの地に城を建てるように進言したのは織田家の重臣である滝川一益であり、縄張りも一益が担当したとされている。
古くは信包が伊勢上野城、あるいはこの安濃津城にて、お市の方やその子供である茶々、初、江の三姉妹を保護したと考えられていたが、彼女たちは織田信次の保護を受け[[守山城]]に滞在していたことが明らかとなり否定された。
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信包が豊臣秀吉の命により丹波国柏原へ移され、翌年の文禄4年(1595年)には代わって富田一白が入城した。
その子・信高が関ヶ原の戦いでは、徳川家康の会津征伐に従軍していたが、下野小山(軍記物では小山評定が開かれたとされる地)にて家康より自国で防備を固めるように命令され、伊勢湾から渡航して安濃津城に帰還した。
このとき同様に帰還した分部光嘉は伊勢上野城を放棄すると安濃津城に入城して信高と合流したが、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らの東軍3万に対して、城を守る西軍の兵は古田重勝による援軍と合わせてもわずか1700であった。
『武功雑記』によれば、信高はこの安濃津城の戦いにより圧倒的な窮地に立たされることとなり自害しようとして本丸へ戻ろうとしたが、そのとき一人の若武者が片鎌の手槍によりたちまちに5、6人を手負いにさせたといい、その若武者の正体は信孝の妻であったという。
その子・信高は関ヶ原の戦いでは徳川家康の会津征伐に従軍していたが、下野小山(軍記物では小山評定が開かれたとされる地)にて家康より自国で防備を固めるように命令され、伊勢湾から渡航して安濃津城に帰還した。
このとき同様に帰還した分部光嘉は伊勢上野城を放棄すると安濃津城に入城して信高と合流したが、毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らの西軍3万に対して、城を守る東軍の兵は古田重勝による援軍と合わせてもわずか1700であった。
『武功雑記』によれば、信高はこの安濃津城の戦いにより圧倒的な窮地に立たされることとなり自害しようとして本丸へ戻ろうとしたが、そのとき一人の若武者が片鎌の手槍によりたちまちに5、6人を手負いにさせたといい、その若武者の正体は信高の妻であったという。
妻により窮地を救われた信高は西軍と和平交渉を結ぶと光嘉とともに剃髪して高野山に登ったが、安濃津城はこの戦により天守など多くの建造物を失ったとされている。
その後、天守は再建されなかったともいうが、寛永年間(1624年~1643年)に描かれた絵図には三重天守と二重小天守があるため、富田氏により再建されたのち寛文2年(1662年)の火災で再度焼失したとも考えられている。
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慶長13年(1608年)には今治藩より加増転封された藤堂高虎が入城し、現在もみられる輪郭式の近世城郭として大改修され、[[津城]]と呼ばれるようになった。

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|所在地|三重県津市丸之内|
|現存状態|津城として現存|
|城郭構造|平城|
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