太閤ヶ平 のバックアップソース(No.3)
*現実の城情報 [#information]

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鳥取の渇え殺しと呼ばれる羽柴秀吉による第二次[[鳥取城]]攻めの際に秀吉が本陣を置いた、織豊系陣城の傑作と評される陣城。
秀吉は毛利氏が派遣した吉川経家が守る鳥取城に対し、周辺に陣城群を築いて総延長約12キロメートルにもおよぶ包囲線を形成し、鳥取城を完全に封鎖して兵糧攻めを行った。
太閤ヶ平はその陣城群の中心であり、鳥取城の本丸から東に約1.4キロメートルに位置する標高251メートルの帝釈山、現在は本陣山と呼ばれる山の頂に築かれた。
陣城群は太閤ヶ平から放射状に並び、特に鳥取城側の3つの陣城は総延長約700メートルの竪堀・横堀によって連結され、鳥取城に対する最終防衛線を形成していた。

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太閤ヶ平はこれらの陣城群のなかでも突出した規模を誇り、方形の区画が大規模な土塁・櫓台で囲まれ、さらにその土塁を長大な横堀が全周するという重厚な構えだった。
幅約10メートルの大手道が通る大手虎口は櫓台と窪地状の突出部の両側面から攻撃できるようになっており、搦手虎口からも片方からではあるが側面攻撃が可能だった。
また織豊系陣城の特徴である屈曲した塁線も随所に見られる大規模かつ巧妙な縄張となっており、織豊系陣城の代表例といえる。
このように太閤ヶ平は完成度の高い陣城である一方で、鳥取城側の最終防衛線の後方に位置する独立した指揮所でもあり、他の陣城とは異なる特別な役割も担っていた。
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秀吉は[[三木城]]攻めの際には平井山ノ上付城を、[[備中高松城]]攻めの際には石井山陣という陣城を築いているが、これらと比較しても太閤ヶ平は圧倒的な規模を有している。
このことから、太閤ヶ平は単に秀吉の本陣としてだけではなく、鳥取市歴史博物館やまびこ館の企画展『鳥取城跡とその周辺-遺構でつなぐ歴史と未来-』でも紹介されたように、織田信長が鳥取城攻めに出陣することを前提に築かれ、信長を迎えることを想定していたという説もある。
『信長公記』には毛利氏の本隊が鳥取城の救援に動く場合には信長が自ら鳥取城へと出陣するつもりであったことが記されており、また陣城にあたる施設を「御陣取」「要害」「付城」「御取出」と記しているのに対し、太閤ヶ平は「居城」と記されていることからも、太閤ヶ平が信長の本陣として築かれた可能性は高いと考えられている。

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|所在地|鳥取県鳥取市百谷|
|現存状態|土塁、堀など|
|城郭構造|陣城|
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