備前・美作に大勢力を築いた浦上宗景が、一代限りの居城とした城。 浦上氏は播磨・備前・美作の守護・赤松氏の守護代の家柄だったが、浦上村宗が赤松義村を下克上で討ち、戦国大名となった。 村宗の死後、その嫡男・政宗と次男・宗景の対立で浦上氏は分裂し、宗景は享禄5年(1532年)に天神山城を築いたとされる。 宗景の本拠地は当初三石城で、天文23年(1554年)に天神山城を本格的に普請し、新たな居城とした。 天神山城は吉井川の中流部東岸の標高約390メートルの天神山に築かれ、細長く延びる尾根は側面が極めて急傾斜であるため、曲輪が一直線に並ぶ単純な構造ではあるものの、その曲輪の多くに石垣が用いられていた。
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宗景は天神山城を拠点に勢力を広げ、毛利元就と同盟し兄・政宗と結んだ尼子氏を破り、今度は宇喜多直家と同盟し備前から毛利氏・三村氏を駆逐、さらに松田氏を滅ぼした。 天正元年(1573年)には織田信長から備前・美作・播磨の支配権を認める朱印状を得て、浦上氏の勢力が確立された。 しかし翌年、政宗の子で宗景が暗殺した誠宗の遺児・久松丸が浦上氏の嫡流であることを利用した宇喜多直家が、久松丸を擁立して宗景に反旗を翻した。 直家は浦上氏の宗家再興を大義名分に天神山城を攻撃し、一年以上に渡る断続的な攻防戦の末、天正3年(1575年)に天神山城は落城、宗景は播磨へと逃れた。 その後天神山城は宇喜多氏の支城として用いられたと考えられ、やがて廃城となった。
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