大鳥井山遺跡、あるいは大鳥井柵跡とも。旧説では早くても14世紀頃の完成とされていたが、発掘調査で出土した土器などから10世紀後半から11世紀後半までに用いられたことが判明した。 従来は元弘2年/正慶元年(1332年)に楠木正成が築いた千早城などが初期の山城とされていたが、200年以上のときを遡ることとなった。 『陸奥話記』では豪族である清原光頼・頼遠父子の拠点であると伝えられており、永保3年(1083年)から寛治元年(1087年)に行なわれた後三年の役で源義家と戦った清原氏が拠点とした山城とも考えられる。 奈良大学の千田嘉博氏によれば、畝状空堀群と思われる3本の竪堀は15、6世紀に出現したとされてきた構造であり、土でつくる城の最高レベルと評している。 南北680メートル、東西200メートルに広がる遺跡は、川に面していない三方向は二重に巡る土塁と堀で囲まれ、堀は最大のもので幅10メートル、深さ3メートルに達し、大型の建物跡も確認された。 これは源平合戦の戦争の姿すら見直しが迫られるものとされ、平成22年(2010年)2月に国指定史跡となった。現在、光頼・頼遠父子の居館跡とされる地には、大鳥井山神社が鎮座している。
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