大館城(飯野平城) のバックアップソース(No.3)
*現実の城情報 [#information]

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大館城(おおだてじょう)は現在の福島県いわき市(陸奥国磐前郡)にあった平山城。別名として平城があり、現在では江戸期に完成した磐城平城と対比させて飯野平城と呼ばれることも多い。
多くの場合、飯野平城は岩城氏時代の現在のいわき市中心部から北西にある飯野平と呼ばれる丘陵部一帯を広く用いた城郭群全体を指し、大館城はその主郭であるという定義がなされている。
築城年代ははっきりしないが、伝承では14世紀に岩城氏庶流であった白土隆弘が築いたと伝えられている。
15世紀半ば岩城氏内部で起こった嘉吉の内紛以降庶流であった白土氏が嫡流を圧倒するようになり、最終的に嫡流にとってかわり岩城氏本家となると、その本城となり、周辺勢力との抗争の中順次拡張され現在に残る形になったと考えられている。
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岩城氏は現在の福島県浜通り中部から茨城県北部の沿岸部までその勢力を誇っていたが、16世紀に入ると周辺の大勢力の圧力の中で徐々に衰退。天正期には事実上佐竹氏に従属した状態となっていった。
秀吉の小田原攻めには参上していたため所領は安堵されるも、直後に岩城常隆が病死、秀吉の仲介で幼少であった嫡男政隆ではなく、常隆の従兄弟である佐竹義重の三男が継ぐ(岩城貞隆)こととなり佐竹氏に取り込まれることとなった。
貞隆は佐竹本家の命で上杉景勝討伐に参加しなかったため、関ヶ原の戦後所領を没収され、かわって鳥居忠政が城主となった。
忠政は幕府の命により大館城の東に新たな大規模城郭の築城を始め、12年の歳月を要して完成させた。これが[[磐城平城]]であり、この時大館城は廃城となった。
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所領を失った岩城貞隆は、江戸幕府に御家復興を申し立て、大坂夏の陣において本多正信麾下として活躍、これにより信濃国中村1万石を与えられ大名に復帰した。
その子吉隆は、最上氏の改易にともない出羽亀田に移った(出羽亀田藩)が、佐竹義宣の嫡男義直の廃嫡を受けて義宣の養子となり佐竹本家を継承。岩城氏には義宣、貞隆の弟である多賀谷宣家が入り宣隆を名乗った。
一方、貞隆が岩城氏を継いだことで追放された岩城政隆はその後伊達氏の保護を受け、祖父岩城親隆が伊達晴宗の長男であったことから伊達一門の扱いを受け、伊達姓に改めその子孫は代々江刺郡岩谷堂を領した(岩谷堂伊達家)。
18世紀に入り、出羽亀田藩で宣隆の血筋が途絶えると、亀田藩は佐竹一門からではなく、岩谷堂伊達家から養子隆恭を迎えるという手段をとり、岩城氏の当主に元来の岩城氏の名跡を継ぐ人物が復帰するという非常に珍しい事態が発生している。
(ただし、当時の岩谷堂伊達氏は養子相続によりすでに岩城氏と血縁上の繋がりはなくなっていた)
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主郭であった大館城は現在湯殿山神社があり、その周辺に曲輪は土塁といった遺構が残っている。
周辺にあった城郭郡の遺構は江戸期以降の城下町の拡張や明治期以降の開発によってほとんどが失われている。
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|所在地|福島県いわき市内郷御台境町・好間町・平|
|現存状態|土塁、曲輪等|
|城郭構造|平山城|
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