大野城 のバックアップソース(No.7)
*現実の城情報 [#information]

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大野城(おおのじょう/おおののき)は太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる大城山に築かれた日本最古の古代山城(朝鮮式山城)となる。城の名前がそのまま地名となった例の一つである。
『日本書紀』に記されている通り、天智天皇2年(663年)、白村江(百済)にて唐・新羅の連合軍に敗れた大和朝廷は朝鮮半島より撤退し、この先おとずれるであろう大陸からの侵略に対し国防に注力する。
まずは百済からの帰化人(亡命した官人)を技術者として起用し、侵入経路としてもっとも容易な平野部、筑紫野地峡帯に遮断城の[[水城]](みずき)を築いた。木樋から絶えず水を流し人口の巨大な濠を作ったのだ。
さらに「秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門国。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫国築大野及椽二城。」((訳:達率答㶱春初を遣わして、城を長門国に築かしむ。達率憶禮福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野および椽(基肄)、二城を築かしむ。))とあり、大野城と[[基肄城]]を翌年の天智天皇4年(665年)に築城した。
大陸から[[大宰府]]を守ると同時に、もしも敵に深くまで侵入された場合は、役人・要人を籠城させるための施設であった。水城の築城から一年遅れての設置である。

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斎藤慎一・向井一雄共著『日本城郭史』によると、日本の古代山城は「嶮山城類」と「緩山城類」の大きく二つのタイプに分かれ、大野城は前者に属し大宰府の北側背後にそびえる標高410メートルの急峻な大城山に築かれた。
南北2キロメートル、東西1.5キロメートルの稜線上に一周6.5キロメートルの城壁が張り巡らされ、さらに南北にはそれが2重構造となっている。
場所によっては「百間石垣」と呼ばれる長大な石垣が存在し、当時はそこに城門を設け、有事の際には官人や貴人が素早く逃げ入り長期籠城する機能があったとされる。
それを証明するかのように近年の発掘調査によって、約70棟分の建物遺構が見つかった。建物の用途としては主に倉庫ではないかと推定され、食料や武具などが保管されていたと考えられる。
侵略がもし起これば、那津の第一防衛線で防ぎ、突破されたならば水城を前に弓で敵を食い止める。さらに破られ大宰府に敵が押し寄せた際には大野城に逃げ延びて籠城を計る作戦であった。
大野城は朝鮮式山城の中でも代表格とされており、源流は百済国の首都であった扶余郡の扶蘇山に酷似している。地形が似ていたため取り入れやすかったと考えられる。
また、この地域は東アジアの都城をモデルとして、大宰府を中心に山岳部の大野城・基肄城、平野部の水城を外郭として防備を固め、大宰府都城が形成された。
大野城が山城として使われなくなった時期ははっきりしないが、大陸からの侵攻の可能性が無くなった8世紀初めの時点で重要性は失われたとされる。

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|所在地|福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町|
|現存状態|土塁・石塁・水門・城門・建物跡・水溜め|
|城郭構造|古代山城(朝鮮式山城)|
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