大溝城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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織田信長による近江支配において、琵琶湖西岸の高島郡を治める拠点となった城。
高島郡は浅井氏の重臣で[[佐和山城]]主だった磯野員昌が、信長に降伏したのちに所領を与えられ新庄城に入っていた。
信長は甥の津田信澄を員昌の養子とし、信澄が実権を握るようになっていったため、員昌は天正6年(1578年)に出奔する。
これによって信澄は正式に高島郡を領し、舅の明智光秀の縄張によって新たに大溝城を築き、居城とした。
この頃、信長は[[安土城]]を中心とした城郭網を整備しており、安土城の対岸にあたる琵琶湖西岸の大溝城は、北東岸の[[長浜城]]、南西岸の[[坂本城]]とともに近江支配の一翼を担った。

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大溝城は琵琶湖の内湖である乙女ヶ池の中に築かれ、本丸からは天主台が湖面に突き出し、天然の良好である大溝港を有する、琵琶湖西岸の水上交通を押さえる要衝だった。
光秀の娘婿だった信澄は本能寺の変後に討たれ、大溝城には丹羽長秀・加藤光泰・生駒親正が代るがわる入り、天正14年(1586年)には京極高次が城主となったが、天正18年(1590年)に[[八幡山城]]に移り、大溝城は空き城となった。
この時、大溝城の建物は一部が解体されて[[水口岡山城]]に移築されたと考えられている。
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元和5年(1619年)には分部光信が入って大溝藩が成立したが、大溝城は一国一城令によって廃城となり、三の丸だけが残され大溝陣屋として幕末に至った。

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|所在地|滋賀県高島市勝野|
|現存状態|長屋門、石垣など|
|城郭構造|平城(水城)|

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