Backup diff of 大宰府 (No. 11)

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*現実の城情報 [#information]

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大宰府とは軍事機能の一端を担い、かつ西海道全体を統轄した当時としては最大規模の国府(地方官衙)で、土塀・土塁や濠はもちろんのこと、守護のため兵士も常駐していた((九州歴史資料館の松川博一氏は『類聚三代格』(平安時代に書かれた法令書)をもとに、大宰府守護の兵士のほか、そこに勤める九州各国の役人を護衛するための兵も私的に使役していただろうと指弾している。))。
初期は堀立柱建物や柵を巡らせた簡単なもので、平城京と同様の朝堂院形式の建物へと大きく改築されたのは8世紀ごろのようだ。とくに写真資料で見かける大宰府政庁復元模型は10世紀ごろの姿を現している。
大宰府自体の防衛力は去ることながら、周りの支城・防壁の存在によって「羅城」と化し、外交、防衛が増した。攻め込まれたとしても逃亡先の[[大野城]]で籠城戦ができるようあらかじめ備蓄を行っている点も特色だろう。
建物上の変化は大きく分けて3期あり、下段の各期城郭構造にて詳らかにしてゆく。さらに、大宰府ゆかりの人物や事象も別枠を設け説明してゆくので、そちらを参考にしていただきたい。

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遠の朝廷(とおのみかど)と称される大宰府の歴史は古く、宣化天皇元年(536年)、博多の那津に官家を修造して有事に備えた那津官家(なのつみやけ)に軍事上の起源を求める向きがある。
文献上初めて姿を現すのは『日本書紀』で、推古天皇17年(609年)に大宰府の前身である筑紫大宰(つくしたいさい)が百済僧の肥後国葦北漂着を報告したとある。
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なぜこの地に政庁機能・国防の一端がこうして築かれたのか。古来より東アジアとの外交の都合上どうしても筑紫に拠点が必要となったからであった。
倭国は4世紀からすでに新羅と戦い、百済との交流をもつ。404年には高句麗軍と対戦して潰敗した。古来よりすでに出兵や交易によって海外という存在を強く認識していたことが分かる。
こうした交流の中、たとえ九州支配を盤石とするための地方行政機関機能が大宰府の初目的であったとしても、じょじょに外交の必要性に駆られ、施設に外交能力が付加されたことは古代の文献や遺構から容易に想像がつく。
また、新羅の海賊事件や13世紀の元寇を含めて顧みれば、東アジアの軍勢が上陸の足掛かりとして、真っ先にこの北部九州を選択するのは火を見るよりも明らかであった。国家防衛手段の確立も必須であったのだ。
しかし当初から軍事力に優れているわけではなく、顕著な軍事強化は白村江の戦い以後で、このころはまだ簡単な施設に海上や施設内警備の兵士を置く程度であったと推測され、まだ地方行政の色が強い。
白村江の戦いの大敗の教訓により、南に[[基肄城]]、とうれぎ土塁、関屋土塁、水城周辺には3つの小水城((天神山土塁、大土居土塁、上大利土塁を指す。通常の水城の規模が小さくなったものと考えて差し支えない。))を築いた。『遠の朝廷』に因ればその配置からは百済最後の王都となった泗沘都城(しひとじょう)((錦江を天然の要害とし、政庁やや下中央に錦城山城、北に扶蘇山城・青山城・北羅城、西に西羅城2つ、川を挟んだ西側奥に浮山城、東に青馬山城・東羅城、南に南羅城を抱きかかえていたようだ。その他、土塁で政庁を囲んでおり、その構造を「羅城」と呼ぶ。))に似るという。
複数の山城と土塁の壁に覆われていることから''「大宰府羅城」''とも呼ばれた。大宰府の背に位置する北には堅牢な山城・大野城が、西の脇には[[水城]](みずき)が障壁を成している。その雰囲気にはただならぬ凄みを感じるばかりである。
敗戦をきっかけとした防衛対策とは言え、大宰府は唐・新羅との戦いを機に西海の地では右に出るものがいないほどの大規模な軍都と化した。しかし、唐と新羅が敵対したため幸いにも後に日本に攻めてくることはなかった。
上述では軍事上の話を推してはいるが、貿易力にも優れており、大宰府に限らずその官道、観世音寺や[[大宰府鴻臚館]]の遺構から出た多くの貿易出土品からその成果が窺い知れる。
特に迎賓館の機能を有していた大宰府鴻臚館と西海道随一の大寺と呼ばれた観世音寺は、貿易の陶磁器や文物とともに大陸の情報が入ってきた。最先端の世界情勢を得る手段としてその存在と力を遺憾なく発揮したであろう。
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余談だが、『日本書紀』には「天武天皇七年(679年)難波に羅城を築く」という記載はあるものの未だ発見には至っていない。
太宰府周辺の土塁は今後の古代日本の羅城を考えるにあたり貴重な発見と言え、当時の国防の在り方の一片を垣間見られる大きな収穫であった。くわえて、文献上でしか確認が出来ていない三野や稲積の遺構発見にも期待が高まる。
また、文献上でしか確認が出来ていない三野や稲積の遺構発見にも期待が高まる。
なお大宰府の呼び名については現存する古代の印影には「大宰之印」とあるが、奈良時代の文書『懐風藻』(751年~752年ごろ成立)や『唐大和上東征伝』(779年)にも「太宰府」の名称で記述が登場する。
現在では機関名は「大宰府」、地名や天満宮としては「太宰府」と使い分けられているようだ。大宰府を和名で「オホ ミコトノモチ(ノ) ツカサ」という。
現在では機関名は「大宰府」、地名や天満宮としては「太宰府」と使い分けられている。大宰府は和名で「オホ ミコトノモチ(ノ) ツカサ」という。

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|所在地|福岡県太宰府市観世音寺4|
|現存状態|土塁、礎石、門跡(堀立柱跡)|
|城郭構造|国府|
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&color(White,Maroon){政庁機能を超えて(クリックで表示)};
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**政庁機能を超えて [#qe2263f7]

大宰府は古代律令制における地方官衙((因みに「衙」の意味と漢字は古来中国から来た言葉であるが、本来地方行政ではなく、もともと「官邸」の意味であったとされる。『新唐書』(単に『唐書』ともいう)にも「天子の居、衙と曰う」と確かに記載が残っている。))の代表格として[[多賀城]]と並び、中央政府の権威を保つための出先機関である。国防能力を期待され何度も増築・改修された。
こうした出先機関は国衙のほか、郡衙(ぐんが)、関塞(せきそこ)、駅家(うまや)、営所などが存在する。
さらに、国衙の機関を中心に形成された政治・軍事都市を「国府」といい、多賀城ならびに大宰府は他の地方官衙よりも国府としての軍事性が突出した存在であった。
北の多賀城が蝦夷地経営を主とし、他方の大宰府は西の守り、大陸・半島との外交を任されていたことからもその特殊さが際立つ。
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**各期城郭構造 [#o8bde07d]

下記はもっとも重要な建物であった大宰府の心臓部「大宰府政庁」の改築をおもにⅢ期に分けて解説したものである。
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【第Ⅰ期】7世紀後半~8世紀第1四半期
政庁第Ⅰ期は堀立柱建物(直接地面に木製の柱を立てるもの)や柵によって構成されており、南門・中門地区、回廊東北隅部、北門地区、正殿地区においてそれが確認されている。
上層にある第Ⅱ期・第Ⅲ期の遺構の残存状態が良好であるため、調査範囲が限定されざるを得ず、全体の把握までには至ってないが、初期から都宮に倣った朝堂院形式の建物配置であったと仮定するのは難しい。
ただ、確認された建物や柵の中には上層以降の南北の中軸線と方向がほとんど合致するものであり、第Ⅱ期の遺構につながるものとして注目している。
なお、最古の鬼面鬼瓦はこの遺跡で出土しており、新羅の鬼面文と酷似するため新羅工人がかかわっていたのではないかと『和瓦のはなし』では語られている。調査によると7世紀末期に製作されたものらしい。
くわえて、平成28年(2016年)、福岡県筑紫野市の丘陵上で約500メートルに及ぶ大規模な7世紀の土塁が新たに発掘され、大宰府一帯を山城や土塁で囲んで区画し防衛していたとする学説が改めて注目を集めた。
土塁は古代の土木技法「版築」を用いたり尾根を切り出したりして築かれており、大宰府を守った古代の城である水城の土塁と同じく、下成土塁と上成土塁((下成土塁…土台となる低めで長大な土塁。上成土塁…下成土塁の上に堆く盛る土塁のこと。))の二段構造となっていた。
今回発見された土塁は1.5メートル程度だが、もとは2メートルほどあったと推測される。
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【第Ⅱ期】8世紀第1四半期~10世紀前半(天慶4年(941年))
第Ⅱ期遺構には、第Ⅰ期遺構と大きく相違する点がいくつかある。構造面では第Ⅰ期建物が堀立柱建物であるのに対して、第Ⅱ期のそれはほとんどが礎石を敷いて建てられている。丸瓦も[[大宰府鴻臚館]]と同じものが出土した。
またその配置には朝堂院形式を採用しており、これは藤原宮(藤原京)や平安宮([[平安京]])など都宮の中心施設に倣ったもので、大宰府の場合はまず政庁域の北寄りに正殿、さらにその北側に後殿があった。
正殿の南方東西に各2棟の脇殿を配し、これらに挟まれた正殿南面部分が広場(前庭)を形成している。また、その南に中門があり、正殿と中門は脇殿を取り込む形でめぐる回廊で結ばれている。
中門の南にさらに南門が配置されており、水城の西門を無事通過してきた海外の使者は長い官道を経て、まず大宰府内へ通じる朱雀大路を通って南門をくぐってゆくことに始まる。
このほかには正殿後背地区北東隅で建物が1棟確認されている。これらの建物はすべて正殿―中門―南門を結ぶほぼ真北方向の中軸線を基準として正殿と配置されているのだ。第Ⅲ期もこの建物配置を踏襲している。
ちなみに、通説では藤原純友の乱の折に一党によって大宰府政庁は焼き討ちにあい、その後再建されることは無かったとされていたが、焼土層を整地した上に第Ⅲ期の礎石が確認されたため、再建無しの通説が覆った。

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【第Ⅲ期】10世紀後半~12世紀前半
政庁第Ⅲ期は朝堂院形式の建物配置をとることや、礎石建物によって構成されるなど、基礎は第Ⅱ期のそれを踏まえている。
ただし、多少の差異ではあるが南門の基壇が東西・南北それぞれ1.2メートル拡幅され、また回廊も全体規模のそのままで梁間を若干狭めるという改修があった。
大きな差異もまたあった。第Ⅱ期にはあった正殿後背地区北東隅にあった建物はなくなり、かわりに後殿北方東西に楼とみられる建物が造営された点である。
第Ⅲ期以降の造営年代を推定する根拠となった資料のひとつに「安楽之寺」の銘を有する文字瓦がある。この瓦は第Ⅲ期南門基壇下の瓦溜まりから出土したものだ。
「安楽之寺」とは延喜3年(903年)に没した菅原道真を葬った安楽寺のことと考えられ、その創建の時期は残された記録から延喜年中(901~923)と推定される。
したがって、少なくとも第Ⅲ期南門の造営年代はこれ以降ということになる。さらにはこの瓦溜まりには焼土・灰が多量に含まれていた。焼き討ちのものと考えられる。

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&color(White,Maroon){主に関係する歴史上の人物一覧};
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**主に関係する歴史上の人物一覧 [#j452c10f]

●筑紫大宰栗隅王(つくしのたいさいくりくまおう)
筑紫の大宰として筑紫国に存在していた栗隅王は、壬申の乱の際に大友皇子の兵力動員要請を拒否し「筑紫の兵力はもともと外敵の侵入を防ぐため、内乱に使うものではない」と一蹴した。(出典:『日本書紀』)
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●大宰帥大伴旅人(だざいのそちおおとものたびと)
彼の邸宅を舞台に行われた梅花の宴で有名な歌人でもあり、彼と山上憶良を含む宮廷歌人が残した歌を「万葉筑紫歌壇」と称す。大宰府政庁にはその万葉歌碑が7基建立されている。
大宰府を立つため関門であった水城へ進む大伴旅人とその思い人であった児島との間、二人は離別に際してこういう歌を交わしている。
'''「凡ならば かもかもせむを 恐れみと振りたき袖を 忍びてあるかも」''' (普通の身分の者なら、ああもしたい、こうもしたいと思うのですが、貴い身分のあなたへは恐れ多く、袖を振るのさえ我慢しています) 児島

'''「ますらをと思へる吾や水くきの 水城のうへに涙拭はむ」''' (涙など流さないと思っていた私が、水城のほとりで涙を拭うことになるのだろうか) 大伴旅人
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●菅原道真(すがわらのみちざね)
大宰府と聞けば思い浮かぶ最も有名な歴史上人物といえば、この菅原道真のほかないだろう。
「諸陣、警固す。帝、南殿に御し、右大臣従二位菅原朝臣を以て大宰権帥に任じ、大納言源朝臣を以て右大臣に任ず。」左記は『日本紀略』昌泰4年(901年)正月25日条、菅原道真の大宰府左遷を伝える記事である。
左遷事件の背景には文人でありながら右大臣にまで上りつめた菅原道真とその一族、その門人たちの勢いと、それを阻止しようとする左大臣藤原時平の策略があったものと考えられている。
左遷された道真は榎社にあったといわれる「府の南館」の粗末な宿舎に追いやられ不遇な時を過ごすが、一切の恨み言は言わず朝廷への忠誠と己の境遇を平静にみつめる生活であったという。
左遷から2年後の延喜3年(903年)に病が原因で倒れ、大宰府配所で失意のうちにこの世を去った。門弟である味酒安行が道真の遺言どおりに柩を牛で引き、牛が止まった場所を埋葬地とした((『天神縁起絵巻』に葬送の様子が描かれている。))。
埋葬場所には祀廟を建て、その菩提を弔うため建てられたのが安楽寺である。なお、牛が止まった場所は現在の太宰府天満宮の本殿の下に眠っているとされ、天満宮は道真の魂を鎮めるための創建であった。

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