大分府内城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]
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豊後守護であった大友氏が大友氏館を建て政治的拠点とし、またその城下町は「府内」と呼ばれ南蛮文化溢れる貿易港としても発展したが、府内城は大友氏改易後、大友氏館の北西部・大分川の河口左岸に建てられた城。
慶長2年(1597年)豊臣秀吉の小姓頭衆であった福原直高によって築城が始められるが領地没収により中断、次に入った早川長敏も取り潰しにあい、慶長7年(1602年)竹中重利により四重の天守を含めて完成に至った。

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また府内城はその場所が別府湾に接した「荷落ろし」の場所であったが、「落」の字を忌み「揚」の字に改めたことで「荷揚城」として呼ばれていた。
その美しい白土の塀から、「白雉城」という別名でも呼ばれている。

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城と城下町を完成させた竹中氏は子重義が長崎奉行を罷免され切腹を命じられ改易、代わった日根野吉明も後継ぎがなく断絶。
万治元年(1658年)松平忠昭が新藩主として入封し、以後大給松平氏が廃藩置県まで藩主をつとめた。
寛保3年(1743年)に大火によって天守を始め城の施設が多く焼失し、以後天守は再建されず、また昭和20年(1945年)大分空襲によって櫓数棟が焼失している。

//福原直高は築城の際に人柱を立てた。
//城跡の西北、石垣の下の水辺にある祠。これが、お宮(みや、おみわ)の墓だと言われています。府内城の築城が始められたのは、慶長2年(1597年)で、石田三成の妹婿の福原直高が府内藩12万石の領主となったときです。府内城は大分川と毘沙門川に挟まれた河口部に築城されていますが、地形上湧き水が激しく、築城には困難を極めました。そこで人柱を立てるということになり、近隣に「人柱の遺族には一生安楽に暮らせるよう保障する」というおふれが出されました。これに応じたのが、上野六坊に住む貧しい一家の孝行娘お宮でした。歴代の城主は、毎月この堀に舟を浮かべ、お宮の霊に参る習わしだったといいます。府内城が俗に“みわが城”、“宮ガ城”と呼ばれるのは、この伝説のためだといわれています。
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//また、お宮の伝説には、もう一つの異説があります。普請奉行が、なかなか進まない工事の責任をとって自刃し、この奉行の娘みやが、父の志を継ごうと人柱に立ったというものです。

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|所在地|大分県大分市荷揚町(大分城址公園)|
|現存状態|櫓2棟(人質櫓、宗門櫓)、石垣、堀、土塀|
|城郭構造|平城/水城|
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