大分府内城 のバックアップ(No.2)
城情報別名:荷揚城、白雉城、みわが城、大分城 福原直高は築城の際に人柱を立てた。 また、お宮の伝説には、もう一つの異説があります。普請奉行が、なかなか進まない工事の責任をとって自刃し、この奉行の娘みやが、父の志を継ごうと人柱に立ったというものです。 秀吉がこの世を去ると直高は家康から府内領六万石を召し上げられ、臼杵領六万石に減封となり、代わって早川長敏が二万石で府内に復帰した。 慶長6年(1601年)竹中重利(羽柴秀吉の参謀竹中重治の従弟か甥にあたる)が豊後高田城より三万五千石で入封しこの頃に府内城とした。 代わって日根野吉明が下野国壬生より二万石で入封するが、明暦2年(1656年)嫡子なく没して断絶した。
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