大分府内城 のバックアップ(No.2)

城情報 Edit

別名:荷揚城、白雉城、みわが城、大分城
慶長2年(1597年)福原直高によって築かれた。 直高は石田三成の妹婿であった関係で臼杵藩六万石から府内藩十二万石に加増転封となり大友館西山城に入った。
直高は荷落の地に新城を築き縁起を担いで荷揚と改名した。これが荷揚城であり後の豊後府内城である。

福原直高は築城の際に人柱を立てた。
城跡の西北、石垣の下の水辺にある祠。これが、お宮(みや、おみわ)の墓だと言われています。府内城の築城が始められたのは、慶長2年(1597)で、石田三成の妹婿の福原直高が府内藩12万石の領主となったときです。府内城は大分川と毘沙門川に挟まれた河口部に築城されていますが、地形上湧き水が激しく、築城には困難を極めました。そこで人柱を立てるということになり、近隣に「人柱の遺族には一生安楽に暮らせるよう保障する」というおふれが出されました。これに応じたのが、上野六坊に住む貧しい一家の孝行娘お宮でした。歴代の城主は、毎月この堀に舟を浮かべ、お宮の霊に参る習わしだったといいます。府内城が俗に“みわが城”、“宮ガ城”と呼ばれるのは、この伝説のためだといわれています。

また、お宮の伝説には、もう一つの異説があります。普請奉行が、なかなか進まない工事の責任をとって自刃し、この奉行の娘みやが、父の志を継ごうと人柱に立ったというものです。

秀吉がこの世を去ると直高は家康から府内領六万石を召し上げられ、臼杵領六万石に減封となり、代わって早川長敏が二万石で府内に復帰した。
しかし、慶長5年(1600年)長敏は関ヶ原合戦で西軍に属した為に改易となった。

慶長6年(1601年)竹中重利(羽柴秀吉の参謀竹中重治の従弟か甥にあたる)が豊後高田城より三万五千石で入封しこの頃に府内城とした。
この竹中氏の時代に四重の天守などが完成した。
寛永11年(1634年)竹中重義とき長崎奉行を罷免されて切腹を命じられ、嫡男源三郎とともに自刃しわずか竹中家は二代で幕を降ろした。

代わって日根野吉明が下野国壬生より二万石で入封するが、明暦2年(1656年)嫡子なく没して断絶した。
明暦4年(1658年)(大給)松平吉昭が豊後国高松より二万二千二百石で入封し、以後代々松平氏が続いて明治に至る。
寛保3年(1743年) 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。
府内城自体に戦歴なし

所在地大分県大分市荷揚町(大分城址公園)
現存状態櫓2棟(人質櫓、宗門櫓)、石垣、堀、土塀
城郭構造

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