基肄城 のバックアップソース(No.5)
*現実の城情報 [#information]

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基肄城(きいのき)または椽城は、665年に佐賀県三養基郡基山町と福岡県筑紫野市の南西部に跨る基山一帯に築城された古代山城である。
その外周を3.9キロメートルにも及ぶ城壁に取り囲まれた包谷式山城であった。福岡平野から佐賀ならびに熊本方面へ向かうとすれば[[水城]]のある二日市峡帯から南下して基山町域を通るのがもっとも理に適う道筋とされる。
そこから古代には官道が敷かれていたはずと推定され、もしそうであれば、この地は現在も国道3号線が通っており、古代から現代にかけて一貫して交通の要衝であった。
基山の眺望は周辺の古代山城と連携が取れる位置にあたり、晴れの日には見晴らしが非常に良い。[[大野城]]ならびに[[大宰府]]とは横一列のつながりであるため、前記二城とは最も密接な関係を持っていたと推測される。
もっと言うならば、他の古代山城同様に主目的は大宰府の防衛にあり、手薄な南を防御するための築城であったことは容易に推量できる。
現在に残る遺構は城壁線を構築する土塁・石塁、水門跡と城壁線途中にある4か所の門跡(うち二つは推定)、約40棟の礎石建物跡である。

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|所在地|佐賀県三養基郡基山町・福岡県筑紫野市にまたがる基山|
|現存状態|土塁、石塁、水門跡、門跡、礎石群|
|城郭構造|古代山城(朝鮮式山城)|

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**城跡構造と考察 [#g08ac927]

土塁跡・石塁跡においてはこの一帯の元来の険しい地形を利用ながら城内を取り囲んでいる。自然の急斜面頂部付近にある城内の境に城壁として土塁を巻いた形だ。
土塁構造は斜面に凭せかけて版築状の積土をおこなう内托構造のものと思われ、城外側の急斜面に対し城内側は平坦面を設けるという、外敵は攻めにくく内側は守りやすい工夫が施された。
また、基山山頂には[[屋嶋城]]にも用いられた夾築構造((断面が台形になっている土塁))の土塁が発見された。

門跡は北帝門跡、東北門跡ともに明確な遺構が確認されている。北帝門は大宰府政庁から基肄城へ入城する正門であった。門の規模や隣接する城壁の様子から間違いなしと考えられている。
門構造としては北側に4メートル幅の通路があり、その両脇には石積み群が虚しくも残っているため、正門は二重の門であった可能性さえある。

城域の別の場所では炭化した米と米倉礎石群の発見があり、先に大宰府政庁跡の不丁地区溝跡から出土した天平7年(735年)の木簡((筑前・筑後・肥などに基肄城の稲穀を分け与えたという旨の記載があった))から、食料の貯蔵も基肄城の役目であったようだ。
白村江の戦いの大敗退を機に築城された即席の防御施設の面を持ちながら、継続可能な施設としての計画があったことが出土品や遺構からうかがえる。
この性質は基肄城のみならず、周辺の古代山城も改築や修繕が施されているため同様の向きがあったと考えられる。


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