城郭都市ドゥブロヴニク のバックアップソース(No.3)
*現実の城情報 [#information]
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アドリア海に突き出た半島を厚さ6メートルの城壁でぐるりと囲った城郭都市で、主に海洋貿易で栄えた。犇めきあう美しい街並みは「アドリア海の真珠」と謳われ、現在は「ドゥブロヴニク旧市街」として世界遺産に登録されている。
そのあまりの綺麗さに感嘆し、1929年に旧市街地を訪れた英国の劇作家ジョージ・バーナード・ショーが「この世の天国が見たくばドゥブロヴニクに行かれよ」と述べたほどだった。
因みに城壁の上は歩くことができ、各砦とも通じている。最も高いところはミンチェタ要塞、海に突き出たボカール要塞、南東に聖イヴァン砦、北東にはレヴェリン要塞が構えている。
また、城壁で連結した砦とは別に、出城の形で岬にはロブリエナッツ要塞が築かれており、現在も城壁散歩のがてら遠目に見ることが可能だ。
ピレ門、ブジャ門、プロチェ門、ポンテ門の4つの城門も設けられ、その中でも最大のピレ門は多くの観光客が通る観光名所となっている。

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ドゥブロヴニク、イタリア語名ラグーサはローマ帝国時代の都市ラグシウムに由来し、12世紀後半からスラヴ語名のドゥブロヴニクが使われるようになったという。
ドゥブロヴニクが位置するダルマツィア一帯は東ゴート王国が支配していたが、その崩壊後は東ローマ帝国の支配下に入り、7世紀頃からクロアチア人が移住し始めて都市国家が形成され、木製の柵を中心とする城壁が築かれ始めた。
やがてイスラーム勢力の地中海侵攻が本格化すると、ドゥブロヴニクは866~867年にかけて15ヶ月間にわたって包囲されたが、これを撃退し城壁による守りが強固であることを示した。
10世紀になってヴェネツィア共和国がアドリア海の支配を進めるなかで、ドゥブロヴニクは948年に包囲されたが撃退し、 セルビア王国のステファン・ネマニャによる1185年の包囲も撃退した。
ドゥブロヴニクは12世紀頃からイタリア諸都市と協定を結び、イタリアとバルカン半島との交易で栄えるようになり、この頃から現在見られるような城壁が築かれていった。
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1204年の第4回十字軍によりヴェネツィア共和国はアドリア海における覇権を確立し、ドゥブロヴニクもヴェネツィア共和国の宗主権を認め、その後ダルマツィアを征服したハンガリー王国の支配下にも入ったが、1358年にラグーサ共和国として独立した。
14世紀末になるとオスマン帝国がバルカン半島への侵攻を本格化させ、ドゥブロヴニクは交易活動を維持するためオスマン帝国との外交交渉を進めた。オスマン帝国としてもヴェネツィア共和国に対抗するためアドリア海沿岸の都市とは友好関係を持つ必要があり、1458年に協定が成立した。
一方で1453年のオスマン帝国による[[コンスタンティノープル]]陥落はドゥブロヴニクに危機感を持たせ、イタリアの建築家ミケロッツォ・ディ・バルトロメオを招いて城壁の強化が進められた。この15世紀から16世紀にかけてが城壁建設の最盛期で、多くの防御施設がこの時代に築かれた。
こうして内外の体制を整えたドゥブロヴニクはアドリア海・地中海交易で繁栄し、ヴェネツィア共和国がダルマツィア一帯を制圧した際にも独立を維持し、オスマン帝国に対しても貢納金を支払うことで独立を保った。
しかし1667年にドゥブロヴニクで大地震が発生し、城壁に大きな被害は無かったものの都市としては壊滅的な被害を受け、衰退していった。
そして1806年にはナポレオンに占領された後、ウィーン会議の結果オーストリア帝国へ併合された。
その後1991年にクロアチア紛争が起こるとドゥブロヴニクは7ヶ月間にわたって包囲され、ユーゴスラビア連邦軍の砲撃により旧総督府が被弾するなどの被害が出て危機遺産に登録されが、戦後復興が進んで1998年には危機遺産リストから除外され、現在は多くの観光客を集めている。

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|所在地|ドゥブロヴニク=ネレトヴァ郡、クロアチア共和国|
|現存状態|城壁、街、門、堡塁|
|城郭構造|城郭都市|
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