城塞都市ロンドンデリー のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報イギリス領北アイルランドとアイルランドの国境近く、フォイル川の河口から5キロメートルほど遡った位置にある城塞都市。 続きをクリックで表示 ロンドンデリー周辺はアイルランドでもっとも古くから人間が生活していた場所で、紀元前1000年ころには居住地があったといわれる。 記録の上での初出は6世紀に修道院が建てられた時のもの。 この居住地はいつからか「樫の木の森」を意味するディレ(またはディリャ)という名で呼ばれるようになり、これがのちに英語化されデリーと呼ばれる。 長きにわたり、町は先述した修道院を中心とする宗教的拠点として発展していて、1604年にはジェームズ1世によって「シティ」の称号を冠することを認められた。 長きにわたり、町は修道院を中心とする宗教的拠点として発展していて、1604年にはジェームズ1世によって「シティ」の称号を冠することを認められた。 しかし1608年に起きたオドハティの反乱で襲撃・焼き討ちに遭い壊滅。フォイル川の対岸(西岸)に城壁で囲まれた新しい都市が作られた。 これが現在に残る城塞都市としてのロンドンデリーである。 新しい都市を造るにあたってロンドンのリヴァリ・カンパニー(同業者組合の集まり)が資金を出資したことを記念して、ロンドンを冠してロンドンデリーという名前になった。 こういった経緯のため、デリーと呼ぶかロンドンデリーと呼ぶかで絶えず議論が行われている。詳しくはWikipediaなどの当該ページを参照のこと。 城壁を持つ街の建設を許可したジェームズ1世の勅許状にはロンドンデリーの名で呼ばれているため、ここでは暫定的にロンドンデリーと呼ぶ。 城壁と町の建設には1613年から1619年までかかり、城壁の建設費は当時の通貨で1万700ポンドに達した。街は十字に組み合わさったメインストリートを軸にした計画都市として設計された。 そして三度目は1689年、名誉革命に続くウィリアマイト戦争の中で、ジェームズ2世を支持するジャコバイト軍による包囲を受ける。 翌89年4月になってジェームズ2世の腹心ティアコネル伯が募ったアイルランド農民兵がロンドンデリーと近郊のエニスキレン城?を包囲し、ジェームズ2世がフランスからの援軍6千とともにこの包囲陣に加わった。 翌89年4月になってジェームズ2世の腹心ティアコネル伯が募ったアイルランド農民兵がロンドンデリーと近郊のエニスキレン城を包囲し、ジェームズ2世がフランスからの援軍6千とともにこの包囲陣に加わった。 ジェームズ2世は降伏勧告を行い、守備隊長ロバート・ランディはそれに応じようとした。しかし市民が蜂起して降伏を拒否し、包囲戦が開始された。 ロンドンデリーは飢餓と病に見舞われながらも落ちず、逆にイングランドから援軍が到来するまで持ちこたえた。7月末、武装商船とフリゲート艦が港に強行突入して食料と増援を送り込み、また同じ日にエニスキレン近郊・ニュータウンバトラーでウィリアマイト軍が大勝したことで形勢が逆転。ロンドンデリーは解放された。 包囲戦を通しての死者は市民、避難民、兵士合わせて3万人中5000人に及んだ。 105日間の包囲に耐えたロンドンデリーを称えて「デリーの城壁」と名づけられた歌も作られた。 短い期間で立て続けに包囲戦が起こったのは、この都市が要衝に位置していただけでなく、イングランドからのプロテスタント(英国国教会派)による入植都市として建設され、その象徴だったからでもあった。
城郭構造(クリックで表示) 城郭構造フォイル川西岸の微高地に、南西―北東を長軸とするややいびつな楕円形に近い城壁で囲まれている。 城壁の全長は1.6キロメートル。高さと厚さは場所によって差がありそれぞれ3.7メートルから10.7メートル(12フィートから35フィート)に達する。 街の中心にザ・ダイヤモンドと呼ばれる四角形の広場を持ち、ここから四方の門にそれぞれメインストリートが延びる。 建設当時にあったのはそれぞれ南西側のビショップ門、南東側のフェリーキー門、北東側のシップキー門、北西側のブッチャー門の四つで、後代になってからさらに三つの門が追加された。北の角のマガジン門、マガジン門とブッチャー門の間のキャッスル門、フェリーキー門の西のニューゲートの三つである。 また五つの角堡塁(バスティオン)が現存し、それぞれに大砲が備えられている。 ビショップ門の近くに街で最も高い建物である聖コルンバ大聖堂が建つ。有事にはこの大聖堂もまた拠点として使われた。 コメント |
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