城塞都市トロイ のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]

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トルコ北西部、エーゲ海に面していた古代アヒヤワ国の首都にして、当時の世界最大港湾都市。別名に「トロイア」・「トロイヤ」・「イリオス」・「イーリオス」・「イリオン」等。
始まりは紀元前6000年ごろ、ヒッサルリクの丘に領主の館として築かれ、現在は海から数km程内陸にあるが、当時は海面上昇により手前まで海だったため港湾都市として発展していった。
アヒヤワ国の面積はエジプト・ギリシャ・ヒッタイトと比べると小国であったが、黒海とエーゲ海を結ぶ重要貿易中継点として大いに賑わい、
特にエーゲ海から黒海への運航は海流と風向きの読みが難しく、トロイの水先案内人が居なければ乗り越えらず大きな利潤となっていた。
大きな争いが無く長らく平和な時代が続いていたが、火山の噴火による天候不順、寒冷化による海面低下・凶作、そして貿易摩擦により、
緩やかな友好関係だったギリシャ・アジア・エジプト・シリア等の関係が崩れ緊迫関係となり、紀元前1250年頃ギリシャが襲撃した。
貿易都市として飾っていた華麗な城壁は、攻め寄せられると脆く容易に破壊され大打撃を受けた。これを契機に優雅な城壁は一転、防衛を基軸とした街並みと武骨な城壁を併せ持った城塞都市となった。
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紀元前1195年頃から本格的に戦乱状態となった。ギリシャ側はヒッタイトと結びトロイを挟み込むも、トロイはヒッタイトの周辺各国と結び、
黒海への運航で培った操船技術により敵船への攻撃、海沿いへの襲撃を得意とし、エジプトの史料には「海の民」として記録に残っている。
紀元前1190年頃、トロイの同盟国カスカの強襲によりヒッタイトは滅亡し、トロイを中心とした連合国はトルコからエジプトまで接するに至り世界最大の連合国家となった。
紀元前1186年、国内勢力をまとめたギリシャが再び攻め寄せてきた。トロイは堀と5m以上の堅固な城壁に囲まれており、ギリシャ側は手が出せず、また悪疫の発生・逃亡者の続出等困難を極めた。
だが、トロイは滅亡した。地震の発生による城壁の崩壊、内通者による開門、講和後突然夜襲をかけた、そしてトロイの木馬等原因ははっきりしていない。
住民の虐殺・放火・破壊が行われ逃げ延びた人々はヨーロッパ・アジア・エジプト各地へ散って行った。トロイの子孫を名乗るのがオーストリアのハプスブルク家やイギリス人の祖先、またイタリアのエトルリア人が子孫という説がある。
滅亡後はギリシャが一時的に復興させるも、そのギリシャが内乱で自滅すると二度と復興される事はなかった。
ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイア』等にその様子は描かれているが、神話の出来事として捉えられてしまい、トロイは永い眠りに付くこととなった。
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その眠りを覚ましたのがドイツのハイリンヒ・シューリマンである。
当時、ヒッサルリクの丘を所有していた地主の息子が考古学に興味を持ち、ここを発掘して欲しいと大英博物館に申請していたが無視されていた。
そこにたまたまシュリーマンが現れた。彼は金や武器を扱う山師で巨万の富を持っていた。だが、栄誉が欲しくトロイの発見が名声を博するに繋がると見て賭けてみることにした。
当時の学界の主流は、トロイは神話の存在で疑問視されていたが、それでも1870年、存在に好意的な学者の意見を基に発掘を行った。
発掘はドイツの発掘隊や学者も加わっていたが、シュリーマンの勘で強引に進められ、1873年、プリアモスの財宝が発掘されると大々的に宣伝。一躍時の人となった。
だが、勘による強引な発掘による遺跡の破壊、発掘品の捏造・無断売却、また学者や編集者をゴーストライターに使い発表し、その書評を執筆した学者や編集者が書くというマッチポンプを行うなど数々の問題を起こしている。

そのシュリーマン死後も発掘は続けられ、紀元前1186年滅亡時の跡が発見されると、ほぼ神話のトロイの跡地と確定された。
その後はトルコ軍の敷地内となり一般人が自由に入れなくなったが、1998年、世界遺産「トロイの考古遺跡」として登録されると観光地として開放され整備された。
現在2004年の映画『トロイ』で使われた木馬が展示されている。また世界遺産登録20周年として2018年、トロイ博物館が新たにオープンし現在も発掘調査が続けられている。
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出典はホメロスの『イーリアス』。紀元前1186年、ギリシャ軍が来攻した時トロイの防御が堅く攻めきれずにいた。そこで木で作った馬の像を作りそれをシンボルとして士気を挙げようとしたが、敗北し木馬を残して船で逃げ帰ってしまった。勝利したトロイは残された木馬を城内へ入れようとしたが、入らなかったので戦勝で高揚していた事もあり城門を壊して城内へ入れた。
勝利に湧き宴が催され深夜まで続いた。そして誰もが眠りについた真夜中、その木馬からギリシャ軍が出て来て、外海で停泊していた本隊に知らせ一気にトロイを攻め滅ぼしたのであった。

なお、エジプトが国内戦で逃走時、甕や荷物の中に兵を隠し夜中出て来て一気に討ち果たした戦果が実際にあり、ホメロスはこれを基に書いたのではないかという説がある。

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&color(White,Maroon){参考文献};
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(著)Heinrich Schliemann (訳)関 楠生 『古代への情熱―シュリーマン自伝』 新潮社 1977年
(著)Eberhard Zangger (訳)和泉 雅人 『甦るトロイア戦争』 大修館書店 1997年
(著)Traill A David (訳)周藤 芳幸・北村 陽子・ 沢田 典子 『シュリーマン―黄金と偽りのトロイ』 青木書店 1999年
大村 幸弘 『トロイアの真実―アナトリアの発掘現場からシュリーマンの実像を踏査する』 山川出版社 2014年
Eberhard Zangger 『The Luwian Civilization : The Missing Link in the Aegean Bronze Age』 Ege Yayinlari 2016年

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|所在地|トルコ、チャナッカレ県、チャナッカレ郡|
|現存状態|遺跡|
|城郭構造|城塞都市|
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