城塞都市カルタゴ のバックアップの現在との差分(No.3)
*現実の城情報 [#information] //編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです) //編集会議室で決まった基準に基づき、本文が長くなるようなら以下の方法で折り畳んでください。(目安は大体6行以上) //本文はなるべく、ほどほどのところで改行してください。改行は「。」のうしろで。 //(本文を5行以下で入力してください。折り畳みを開始するのは、キリのいいところで結構です) 城塞都市カルタゴはチュニス近郊の半島の先にあった城塞都市で、フェニキア人の植民市に始まり、後には西地中海の大国カルタゴの首都、ローマ帝国アフリカ属州の州都、ヴァンダル王国の首都となった。 伝説によれば、紀元前9世紀末にフェニキア本土にある[[城塞都市テュロス]]の女王エリッサがこの地に亡命し、現地民から土地を借りて建てたと言われる。 そしてアラリアの海戦などを通じてカルタゴが西地中海の覇権を握り、その首都として城塞都市カルタゴも栄華を極め強固な城壁を築いていたが、最終的には三度にわたるローマとのいわゆるポエニ戦争により、徹底的な破壊が行われた。 ローマに破壊されて100年後、アウグストゥスによりカルタゴは再建され、ローマ帝国のアフリカ属州の州都としてローマに次ぐ繁栄を極めた。 紀元後435年になると、ゲルマン諸部族の一派のヴァンダル族が街を占拠してヴァンダル王国の首都となり、その後は東ローマ帝国、ウマイヤ朝と主が変遷し、ウマイヤ朝の頃に近隣にチュニスが築かれると、カルタゴは放棄された。 |BGCOLOR(#ddd):80|300|c |所在地|チュニジア共和国 チュニス市| |現存状態|ポエニ時代の住居跡、祭祀場跡、ローマ時代の遺構などが残る| |城郭構造|城塞都市| #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){西地中海の覇者の都カルタゴ(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ カルタゴは、今のレバノン周辺を本拠地としていたフェニキア人達により築かれた数ある植民市の一つだった。 前述の通り、伝説では紀元前9世紀末にテュロスの女王エリッサが建設したとされる。 エリッサは「1頭の牛の皮で覆えるだけの土地が欲しい」と現地民に言って快諾され、結果として1頭の牛の皮で作ったロープで囲った丘を手に入れた。 そしてここにカルタゴの街が建てられた。 ただ実際には古くとも8世紀後半ごろの墓地や城壁の跡しか見つかっておらず、実際の入植時期については紀元前8世紀後半ごろだろうと見られている。 以降しばらくはフェニキア人の西方航海の中継地とされたが、紀元前6世紀ごろのフェニキア本土の混乱により、テュロスなどのそれまでのフェニキア人の都市に代わってカルタゴが頭角を現し始めた。 そしてアラリアの海戦などを通じて西地中海の覇権を得てからは、地中海にカルタゴを中心とした海上通商のネットワークが築き上げられ、カルタゴは西地中海の覇者の都として栄華を極めていった。&br; この時代のカルタゴは、合計4回の危機にさらされた。 最初は紀元前310年のシチリアの都市国家シュラクサイのアガトクレスによるアフリカ侵攻で、カルタゴから湾を挟んで反対のボン岬に上陸し、進路上の田畑を略奪し、城塞を次々に落としていった。 これに呼応してカルタゴに反感を持っていた現地民や内部の野心家も反旗を翻すなど危機的な状況に陥ったが、最終的にはアガトクレスを追い返すことに成功した。&br; 次は紀元前256年ごろ、第一次ポエニ戦争の時のローマによるアフリカ侵攻で、先に行われたアガトクレスの侵攻を手本とし、現地民の反乱も利用しながらカルタゴまであと一歩のところまで攻め入られた。 しかし、追い詰めたローマが提示した和約の条件にカルタゴの元老院が激怒し、傭兵として雇っていたスパルタ人のクサンティッポスに陸戦の戦術を教わり、ローマ軍を追い返した。&br; 次は紀元前202年ごろ、第二次ポエニ戦争で行われたいわゆるザマの戦いである。 カルタゴのバルカ家により統治されていたイベリア半島を制圧したローマのスキピオは、いよいよカルタゴ本土への侵攻のため、カルタゴの北に位置するウティカの街に大軍を率いて上陸した。 スキピオはカルタゴへ講和条件を提示し、カルタゴ元老院はそれに応じるとともに、イベリア半島にいた将軍ハンニバルを本土へ呼び戻した。 しかし、ハンニバルの帰還はカルタゴの主戦派や熱烈なハンニバル支持者を刺激し、カルタゴのそばに漂着したローマの輸送船を略奪するという事件につながった。 これにより講和は白紙となり、近郊のザマにおいてハンニバル対スキピオの最終決戦が行われた。 最終的に、象騎兵への対策、ヌミディアの懐柔によるヌミディア騎兵の獲得、カルタゴの歩兵の練度などの差により、ハンニバルの軍がスキピオに包囲殲滅されてしまった。 この結果により、元の講和条件よりも厳しい条件で、カルタゴはローマと講和を結ばざるをえなくなった。&br; 最後は紀元前149年からの3年間にわたる第三次ポエニ戦争で、この戦いの中で城塞都市のカルタゴが初めて戦場となり、そして陥落した。 当時のカルタゴは、ハンニバル主導による戦後復興で目覚ましい復活を遂げており、なお地中海の商業の中心地であり続けていた。 この時のカルタゴは、街が位置する半島と大陸との間の地峡部に三重の巨大な城壁を築き、海岸線沿いにも城壁が張り巡らしていた。 また、城内の南側には四角い商業用の港と、ドーナツ型の軍事用の港の二つの港があり、軍事用の港は外から見られにくいように二重の城壁と高い監視塔で視界が遮られていた。 この軍港には220隻の船が停泊できたという。 また、港湾地区のすぐ後ろには地中海有数の生産力を誇る工業地帯があり、それが3年間のローマの攻囲に抵抗できた力の源にもなった。 この城塞都市カルタゴに対し、ローマ軍は陸と海からあの手この手で攻め立て、紀元前146年に軍港の城壁を突破されてカルタゴは陥落した。 カルタゴに侵入したローマ軍は、カルタゴを徹底的に破壊し、建物ごと住民を虐殺し、神殿に逃れていた住民はまとめて奴隷として売り払い、街は10日間にわたり焼かれ続けた。 }} #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){ローマに次ぐ第2の都市カルタゴ(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ 第三次ポエニ戦争で徹底的に破壊されたカルタゴだが、その100年後にローマのカエサルにより再建が計画され、アウグストゥスにより実際に再建が行われ、ローマ帝国のアフリカ属州の州都となった。 再建後の発展は目覚ましく、ローマに次ぐ帝国第2の都市として、今でも遺構が残る円形闘技場や浴場、競技場などローマ的な建物が次々に建設された。 ローマ帝国にとっては、帝国随一の穀倉地帯の中心都市であり、ローマ帝国海軍の拠点でもあり、帝国の経済力・軍事力の源泉と言える重要拠点となった。 また、この時代のカルタゴは初期のキリスト教の拠点の一つでもあり、ラテン教父のテルトゥリアヌスなどが活躍した。 }} #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){ヴァンダルの都カルタゴ(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ 439年、ヴァンダル族とアラン族の王ガイセリックによりカルタゴが占拠された。&br; この2部族は、それぞれシレジア地方と北コーカサスにいた部族だが、2世紀からの民族大移動の流れで、イベリア半島を抜けてアフリカへと渡っていた。 そしてアフリカへ渡ったあと、この2部族は東へと進撃を続けカルタゴを包囲するに至った。 この段階で西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世と、両部族の王のガイセリックが和平交渉を行い、2部族が北アフリカの一部を占有することを条件にいったん和平を結び、結果的にヴァンダル王国が建国された。 だが、ガイセリックはカルタゴの事を諦めておらず、西ローマがガリア方面の対応で手いっぱいになっている情報を掴むとカルタゴへ進軍、無血占領し、カルタゴにあったローマ帝国海軍の艦船のほとんどを奪った。 以降、カルタゴはヴァンダル王国の首都として機能した。&br; カルタゴに拠点を置いたヴァンダル王国は、国王のガイセリックの指揮のもと西地中海の覇権を握ってあちこちを略奪してまわり、東西ローマ帝国の脅威となった。 そしてとうとう455年、ガイセリック率いるヴァンダル王国は、かつてのカルタゴが成しえなかったローマの攻略までもを成した。 このヴァンダル王国に対し、東西ローマ帝国の連合軍がカルタゴ近郊にあるボン岬まで進軍してくる事件が起きた。 連合軍に対し、ガイセリックは偽の和を請うて使節を派遣し、ぬか喜びしていたところに75隻の火船をぶつけ、ほぼ無傷のまま連合軍を壊滅させた。&br; ガイセリックが亡くなると、ヴァンダル王国は衰退へと向かった。 そして6代目の国王のゲリメルの時代になると、東ローマ帝国のユスティニアヌス1世がヴァンダル王国への戦争を開始し、べリサリウス将軍が派遣された。 緒戦は東ローマ帝国が常に優位に戦い、そしてとうとうカルタゴまで進軍してきたが、その時のカルタゴは城壁が破損していたため籠城戦が行われる事は無く、べリサリウスはカルタゴを無血占領することができた。 その後まもなく、ヴァンダル王国は滅亡した。&br; 以降のカルタゴは東ローマ帝国の一都市となったが、東からきたイスラーム勢力のウマイヤ朝に攻略されて以降は近郊のチュニスの街がこの地域の中心となり、カルタゴは放棄された。 }} #br #style(class=submenuheader){{ &color(White,Maroon){参考資料(クリックで表示)}; }} #style(class=submenu){{ 栗田伸子・佐藤育子『通商国家カルタゴ』講談社〈興亡の世界史〉、2009年 Wikipedia, Cartage, https://en.wikipedia.org/wiki/Carthage , 2020/5/2閲覧 Wikipedia, Carthage, https://en.wikipedia.org/wiki/Carthage , 2020/5/2閲覧 松谷健二 『ヴァンダル興亡史 地中海制覇の夢』 白水社、1995年 }} *コメント [#comment] #pcomment(,reply,10,) |
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