鹿児島県霧島市国分中央。 国分平野は古くは隼人の根拠地(本城)であり、ヤマト王権と独立/服属をめぐり争った。城はその当時から存在したと考えられており、曽於乃石城の名で八幡宇佐宮御託宣集に残されている。 721年に反乱が鎮圧されたのちは、国衙・国分寺などの国府機能がおかれ大隅国の中心地としての役割をはたした。
薩摩国守護大名・島津氏16代当主・島津義久。 義久は、かつての居城であった富隈城からこの地に移り住み、ここに中世屋形形式の新しい城を築き上げ、これを国分城と名付けた。 慶長9年(1604年)頃のことである。
続きをクリックで表示
さらに義久は、明国からの帰化人である家臣・江夏友賢に、それまで寒村であったこの地に碁盤目状の道を敷かせ、明国から商人を招いて唐人町を作るなどして、国分城下を整備させた。 薩摩藩領のほぼ中心に位置し交通至便なことから何度も鹿児島城からの移転が検討されたが実行されず、薩摩藩島津氏の屋形として江戸時代を過ごした。 明治に入り廃城になると国分村国分小学校の敷地になり、石垣と堀が現存している。
コメントはありません。 Comments/国分城?
コメントはありません。 Comments/国分城?