善得寺城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報善得寺城は応永年間(1394~1428)、今川範政により当時富士川以東の大寺院で、後に今川・武田・北条の三将会盟の舞台となった善得寺に併設され、今川氏の軍事・政治的拠点の役割を果たしたが、永禄12年(1569)武田氏の駿河侵攻で焼失した。 善得寺城は応永年間(1394~1428)、今川範政により当時富士川以東の大寺院で、天文23年(1554)に今川、武田、北条の駿河東部を中心とした抗争の中、今川家の軍師太原雪斎の斡旋で成立した「駿甲相三国同盟」の舞台となった善得寺に併設され、今川氏の軍事・政治的拠点の役割を果たしたが、永禄12年(1569)武田氏の駿河侵攻で焼失した。 現在、城の所在地、構造規模等、明らかでなく推定は難しいが、上和田地区付近を城山と呼び、また鍛冶町の地名の名残り周辺地形から、この一帯に善得寺城が存在したものと思われる。 『伝善得寺城跡』説明板より引用
コメント |
Published by (C)DMMゲームズ
コメントはありません。 Comments/善得寺城?