周山城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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明智光秀が[[丹波亀山城]]・[[福知山城]]とともに丹波支配の拠点とした、総石垣で築かれた巨大山城。
織田信長の命を受けて丹波平定を進めた光秀は八上城の波多野氏、宇津城の宇津氏、[[黒井城]]の赤井氏を降して天正7年(1579年)に平定を終え、丹波亀山城、[[丹波横山城]]改め福知山城、そして周山城を改修・築城した。
光秀は縄野村を周山と改名し、大堰川と弓削川の合流地点、京から若狭へ通じる長坂街道を押さえる要衝に、他の2城とは違って標高約480メートルの急峻な山上に築いた。

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周山城は大きく東と西に分かれ、東側は山頂の主郭から放射状に曲輪が並ぶ大規模な山城で、末端は土造りではあるものの主要部分は石垣で築かれた、ほぼ総石垣の城だった。
特に斜面を守る意識が強く見られ、斜面を行き来する道を石垣で補強して曲輪間の関係を強化する構造は、のちに[[彦根城]]などで見られる登り石垣に近いものとなっている。
一方で西の城は純粋な土造りの城で、東の城の出丸的な存在、あるいは一時期に使用する陣城に近い存在と考えられている。
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光秀が山崎の戦いで討死したのち、丹波は羽柴秀吉の支配下に置かれ、秀吉が徳川家康と対立した際には丹波の在地勢力が家康に呼応して秀吉方と戦った。
『兼見卿記』によると、小牧・長久手の戦いの直前にあたる天正12年(1584年)2月に秀吉が周山城を訪れたとあり、以後文献上に見られなくなることから、この頃に周山城は廃城になったとされる。

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|所在地|京都府京都市右京区京北周山町|
|現存状態|石垣、堀など|
|城郭構造|連郭式山城|

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