名護屋城 のバックアップ(No.2)

「唐入りに由縁あり」
唐入りを表明し、朝鮮からの通信使を国王による服属の使者だと思い込んだ秀吉は、早速大陸侵略に向けた準備を開始する。
天正19年(1591年) 8月13日付で秀吉の側近 石田正澄(石田三成の兄)が肥後国人吉の相良頼房に宛てた書状によると、「来年三月朔日に、唐へ乱入されるべき旨に候、各も御出陣御用意尤もに候、なこや(名護屋)御座所御普請、黒田甲斐守・小西摂津守・加藤主計に仰せ出され候」とあり、文禄元年3月1日に、「唐入り」を開始するため、諸大名にその出陣の用意をするよう命じている。また、その際、日本の前線基地として肥前国名護屋(元佐賀県唐津市鎮西町名古屋)に城を設け、豊前国中津の黒田長政・肥後国八代の小西行長・同国隈本の加藤清正の三大名にその築城を命じた。

秀吉が唐入りの前線基地として、名護屋を選んだのは、島伝いに朝鮮半島へ向かう最短距離に名護屋が位置し、軍勢の配置や艦船の集積にも適していたことなどが指摘されている。築城が開始された名護屋城は5ヶ月ほどで、天守や本丸など城の主要な部分が完成したとされるが、文禄の役で九州の大名が渡海した後も、他の大名によって、その工事は続けられており、文禄元年末ごろに、城のほとんどが完成したといわれている。

「聚楽第にも劣らぬお城、天に伸びる七重の天守」
秀吉の出陣命令を受けて名護屋に参陣してきた石見国津和野の領主 吉見元頼の家臣 下瀬頼直は名護屋入りした際に七重の天守を見て感嘆している。
しかし、城の評判は武将たちの間だけに留まらなかった。京都の公家菊亭晴季は「名護屋の御要害、天下聚楽に劣ることなし」(『菊亭家記録』)と名護屋城が英美の気づいた聚楽第に引けをとっていないとし、名護屋城の評判が遠く京都にまで及んでいることがうかがえる。



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