十狐城 のバックアップの現在との差分(No.2)

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*現実の城情報 [#information]

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鎌倉時代から比内地方を支配した比内浅利氏の居城。浅利氏は奥州合戦で源頼朝に従った浅利与一義遠を祖とする甲斐源氏の庶流にあたる名族で、甲斐八代郡浅利郷を本領とし奥州合戦後に頼朝から比内地方の地頭職を与えられた。
建武元年(1334年)、陸奥守北畠顕家は南部師行に鹿角・比内を与え、これに対し比内浅利氏は翌年に挙兵した足利尊氏に与して北朝方として活動し、建武3年(1336年)~同4年(1337年)にかけて南朝方の南部氏が支配する鹿角の諸城を津軽の曽我氏とともに攻めている。
正平9年・文和3年(1354年)の「沙弥浄光譲状」によると、この頃の浅利氏は甲斐の浅利郷と出羽の比内郡を所領としていたという。
十狐城の築城時期と浅利則頼以前の状況については史料が少なく不明な点が多いが、『長崎氏旧記』では「永正十五年三月、奥州津軽より引移、初めて十狐城を築」とある。
則頼は十狐城を本城として比内地方各地に支城を構え、一族や家臣を配して比内地方の支配を固めていった。

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天文19年(1550年)、則頼は十狐城で死去し子の則祐が跡を継いだ。しかし永禄5年(1562年)、則祐は[[檜山城]]を本拠とする檜山安東氏の安東愛季と対立し、弟の勝頼が愛季に与したこともあって劣勢となり長岡城で自害した。
勝頼は安東氏の家臣として比内領主となったが、天正年間(1573~1592年)に入り安東氏の矛先が南に向けられている間に独立を図り、再び安東氏との抗争が起こった。
そして天正10年(1582年)、愛季は勝頼を謀殺して比内地方の支配権を比内浅利氏から奪い、勝頼の子・頼平は津軽の大浦為信のもとに身を寄せた。
天正15年(1587年)、安東氏改め秋田氏の大館城代五十目秀兼が南部氏に内通し、比内地方は一時南部氏が支配した。しかし翌年になって秋田実季は大浦為信と結んで比内地方を奪還し、実季は為信の斡旋もあり頼平を比内地方に戻らせた。
こうして比内浅利氏は秋田氏の家臣となり、太閤蔵入地の代官として再び比内地方を支配することとなった。しかし蔵入米と[[名護屋御陣>名護屋城]]用金子の未進問題に端を発して秋田氏との間で紛争が起こり、慶長2年(1597年)の大坂で裁定が行われるまでに発展した。
こうして比内浅利氏は秋田氏の家臣となり、太閤蔵入地の代官として再び比内地方を支配することとなった。しかし蔵入米と[[名護屋御陣>肥前名護屋城]]用金子の未進問題に端を発して秋田氏との間で紛争が起こり、慶長2年(1597年)の大坂で裁定が行われるまでに発展した。
しかし翌年、この裁定中に頼平が急死して比内浅利氏は事実上滅亡し、その後の比内地方は慶長7年(1602年)に佐竹氏が入るまで秋田氏が支配した。
十狐城は『大館旧記』によると、頼平の死後に実季が比内浅利氏の残党を平定した後に破却したとある。また『十二所町郷土読本』によると、比内浅利氏家臣の片山駿河が勝頼を殺害、頼平を毒殺し、十狐城を守っていた頼平の子・頼治を攻め十狐城が落城したという。

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|所在地|秋田県大館市比内町独鈷|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|連郭式平山城|

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**城郭構造 [#r45b1fd5]

十狐城は大館盆地東南部に位置する独鈷集落の東側、だんぶり長者伝説が伝わる独鈷大日神社が鎮座する台地の北西側に築かれた。神社から続く道は十狐城の南端部に接し、台地の南側を炭谷川、北側を小河川が流れ、独鈷の西側を北流する犀川に合流している。
城域は東西約1500メートル、南北約500メートル、標高約100~110メートルの段丘上に立地し、河川に向かって刻まれた浸食谷を利用して空堀とし、4つの曲輪と2つの出丸からなる。
主郭は一の郭あるいは二の郭と考えられ、一の郭は東西約30~50メートル、南北約120メートルの曲輪で、周囲には空堀が巡る。東側の空堀は南東の大日堂裏手の浮島と呼ばれる小沼から水が流れ出ており、当時は谷地であったと思われる。また一の郭の北端部、三の郭と向かい合う部分には小規模な腰曲輪が設けられた。
二の郭は一の郭の西側に幅約40メートルの空堀で隔てられた東西約30~50メートル、南北約130メートルの曲輪で、北・西・南側の斜面中腹には幅4~8の帯曲輪がある。
三の郭は一の郭と二の郭の北側にある東西115メートル、南北約40メートルの曲輪で、一の郭と連続する台地であったものを幅約15メートルの空堀で分断している。また三の郭の西側と北東には出丸が置かれた。
四の郭は三の郭から北に約50メートルの地点にある東西約40メートル、南北約80メートルの曲輪で、現在はその間を小河川が流れている。
水の手としては一の郭南側の大日堂裏手の浮島や、空堀として利用した小浸食谷に浸透する湧水がある。

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