北白川城 のバックアップの現在との差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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京と近江をつなぐ交通の要衝に位置し、京を防衛する拠点として用いられた城。時代によって「勝軍山城」や「東山新城」とも呼ばれるが、その区分は明確でない。戦国時代の京で戦乱が起こると度々使用され、近畿地方の中世城郭では史料が多い城の一つ。
史料上の初見は応仁の乱の頃で、『山科家礼記』には文明2年(1470年)9月に東軍の若狭守護武田氏の部将である逸見氏が「北白川上山構」を築いたと記される。文明15年(1483年)7月には室町幕府の政所執事である伊勢氏が「北白川御新造」を築いたと『親元日記』に記されている。
16世紀前半には細川京兆家が分裂して家督争いが起こり、長期間に渡る両細川の乱が展開された。そのなかで室町幕府管領の細川高国は北白川城の周辺にあった勝軍地蔵に祈祷し、大永元年(1521年)9月には多くの参詣者を集め「勝軍地蔵堂」と呼ばれるようになったと『二水記』にある。
大永7年(1527年)には、細川京兆家当主の座を狙っていた阿波の細川晴元が丹波の柳本賢治と結んで高国と対立し、京へと攻め上った。高国は「勝軍地蔵山」に築城を命じるが晴元方に押され京を離脱した。その後高国はすぐさま帰還して北白川城に入ったが再び賢治に敗れた。
この戦い以後は晴元が京を押さえるが、その後も高国方についた内藤彦七が北白川城に陣取り京をうかがっていた。『二水記』によるとこの時に「勝軍城」のそばに新しく築かれたのが「東山新城」といい、享禄4年(1531年)には近江衆も新たに城を築いたという。

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一方で高国を破った晴元は室町幕府第12代将軍足利義晴と連携したが、高国の養子の氏綱が河内・和泉で活動し、また晴元と義晴も不和になるなど緊張状態が続いた。そのなかで天文15年(1546年)11月に義晴は「東山白川山上」に「御城」を構えた。
天文18年(1549年)には三好長慶が江口の戦いで晴元を破って京に入り、この時室町幕府第13代将軍足利義輝は中尾城を築いて対抗しようとした。一方で北白川城も用い、『言継卿記』には天文19年(1550年)4月に「北白川城」には奉公衆30人が居住し、御殿も四棟建っていたという。これに対し長慶は義輝らを攻撃し北白川城は破却された。
天文18年(1549年)には三好長慶が江口の戦いで晴元を破って京に入り、この時室町幕府第13代将軍足利義輝は[[中尾城]]を築いて対抗しようとした。一方で北白川城も用い、『言継卿記』には天文19年(1550年)4月に「北白川城」には奉公衆30人が居住し、御殿も四棟建っていたという。これに対し長慶は義輝らを攻撃し北白川城は破却された。
天文21年(1552年)1月には長慶と義輝・晴元は一時和睦し、義輝は京に入った。しかし天文22年(1553年)に義輝は再び長慶と対立して晴元とともに近江へと逃れ、永禄元年(1558年)に京に向けて進軍すると、長慶はいち早く「勝軍地蔵之山」を陣取った。その後義輝・晴元は長慶方が放棄した北白川城に入城している。
義輝と長慶との間で妥協が成立した後、永禄4年(1561年)に河内の畠山高政と結んだ近江の六角義賢が京へと進軍し、その際に義賢は「勝軍」に入り京を制圧した。
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長慶が死去すると三好政権は動揺し、この機に乗じた織田信長が永禄11年(1568年)9月に足利義昭を奉じて京へ入り、この時に「勝軍城」も義昭の山城として機能していたとされる。
元亀元年(1570年)9月に越前の朝倉義景と近江の浅井長政が京へと進軍すると、義昭の奉公衆は北白川城に陣取った。また明智光秀もこれに加わり、比叡山と対峙した。
この戦いを最後に京防衛のための拠点だった北白川城の重要性は失われ、廃城になったとされる。
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北白川城は比叡山から如意ヶ嶽へと続く南北に伸びる山地から派生した西尾根の突端、比約200メートルの瓜生山(勝軍山)に立地する。
瓜生山一帯には尾根筋に沿って大きく分けて8つの城が築かれ、それぞれ構造や規模、立地が似通っており、個々に独立した存在となっている。
このうち山頂部の主郭を中心とする4つの曲輪は東西に連続しており、主郭は東西に畝状空堀群が設けられたものの、虎口や土塁はあまり見られない。
一方で主郭から連続する曲輪群はより実戦的な構造で、逆L字型の土塁が築かれ、尾根を断ち切る横堀と竪堀を設け、尾根上の山道を迂回させて虎口に誘導するような構造となっている。また虎口の手前には横堀があり、進入路に対し側面攻撃ができるよう工夫されている。
これら山頂付近の4つの曲輪群に対し、その南側に連なる残り4つの曲輪群に関しては部分的に土塁が見られる程度の小規模な曲輪が多い。しかし西端の曲輪だけは削平された曲輪がまとまり、切岸や帯曲輪も見られるが、やはり土塁や虎口はあまり見られない。
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このように北白川城は複数の山城が並立するような構造で、状況に応じて使用する範囲が変わったと考えられる。戦国時代にも範囲を分けて考えようとしたことはうかがえ、「勝軍之下之山」「勝軍之上之山」「東山新城 旧武田城也」などの表現がある。
天文16年(1547年)が築いた「勝軍之下之山」の時期には「北白川」の語が頻出しており、主郭南側の曲輪群における西端の曲輪が「勝軍之下之山」とされる。

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|所在地|京都府京都市左京区一乗寺松原町|
|現存状態|堀、土塁など|
|城郭構造|山城|

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