勝幡城 のバックアップ差分(No.6)

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*現実の城情報 [#information]

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勝幡城(しょばたじょう)は、天文3年(1534年)出生である織田信長出生の城として有力視される城郭。
近年まで信長出生の城として古渡城、[[那古野城]]、勝幡城が候補に挙がっていたが、那古野城での出生が定説であった。
しかしながら、『言継卿記』によれば天文2年(1533年)には竹王丸(のちの今川氏豊)が那古野城主であり、織田信秀(信長の父)の勝幡城に招かれている。
さらに『尾州古城志』には天文3年(1534年)に織田信長が勝幡城で生まれたと記されており、信秀が那古野城を領していたのが確実とされる時期は天文7年(1538年)であることから勝幡城出生説が有力となった。
また、古渡城が築かれたのは信秀の那古野城奪取後であるため、天文7年(1538年)に那古野城が奪取されたのであれば当然ながら古渡城は候補から消える。
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&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
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勝幡城は信長が[[清洲城]]を奪取すると廃城となり、現在、跡地には石碑や木碑があるのみだが、NPO法人「信長生誕を育む会」は武将隊の「勝幡城うつけ武将隊」を設置、「信長生誕480年祭」を開くなどして勝幡町を盛り上げている。
また、ピアゴ勝幡店にあるクレープ店「フォーシーズン」では「信長ジンジャエール」「信長かぶと」「信長あいさいさんガレット」など、信長の名前を冠する商品が販売されている。

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|所在地|愛知県愛西市勝幡町~愛知県稲沢市平和町六輪字城之内|
|現存状態|石碑、木碑|
|城郭構造|平城|
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&color(White,Maroon){城郭構造(クリックで表示)};
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**城郭構造 [#mf7fc850]

城郭の特徴としては大きな櫓台があり、10メートル四方の台に相当な規模の櫓があったとされる。
土塁も高く、水害対策(近くを流れる三宅川を含めた河川の氾濫への備え)としても機能した。
曲輪は外周を埋めるような円状ではなく、北の曲輪は弧を描いた先が緩やかに外へ向いており、南から伸びてくる曲輪の端が望める。
これは「横矢」と呼ばれる防衛の工夫のひとつで、敵を両方角から矢で射貫く設備である。
南北の曲輪の端の間には土橋が設けられており、本丸へ進もうと渡った敵を両端から一斉に狙撃することができる。
これを「合横矢(あいよこや)」「両横矢(りょうよこや)」といい、勝幡城は横矢を四方に張り巡らせ厳重に守らせたとされる。
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総構えの中央に位置する本丸は東西約52.7メートル、南北約78.2メートルの広さで、土塁に囲まれていたという。
さらにその本丸中央に建てられた館は、山科言継も見事な建物だと驚いている。

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&color(White,Maroon){尾張の虎・織田信秀(クリックで表示)};
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**尾張の虎・織田信秀 [#e9291d4a]

信長の父である織田信秀は、生年には諸説あるが、永正7年(1510年)に尾張国の織田大和守家の家臣・織田信定(信貞とも)の嫡男として勝幡城で生まれた。
家系は清洲三奉行の一つ・弾正忠家であり、信定も津島を勢力下に置いていたが、大永6年(1526年)4月から同7年(1527年)6月の間に信秀に家督を譲った。
信秀は天文元年(1532年)、清州三奉行の一人で小田井城主の織田藤左衛門と争い講和し、天文2年(1533年)には蹴鞠の宗家・飛鳥井雅綱や山科言継、今川氏豊を勝幡城に招いている。
天文3年(1534年)には子の信長が生まれ、天文7年(1538年)頃には、謀略により氏豊の居城・[[那古野城]]を奪取した。
信秀は東方への備えのため古渡城を築き熱田を支配すると、天文17年(1548年)には末森城を築き拠点を移し、確かな経済基盤を築くとその勢力は主家を凌ぐようになり戦国大名化し、「尾張の虎」と恐れられた。
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近年では信秀が[[岡崎城]]を含む三河国を平定していたとする書状、「菩提心院日覚書状」が解析されたことにより、[[今川館]]の今川義元の下に人質として送られるはずだった竹千代(のちの徳川家康)を買収により強奪したという逸話は史実ではないと考えられるようになってきている。
このため信秀の謀略家としての評価は薄まることとなるが、松平家を支配下に置き、通説よりも勢力を広げ義元を苦しめていたことになるため、決して武将としての評価を下げるものではない。
のちに義元に長男(生母は側室)の信広が捕縛されると竹千代との人質交換に応じ、徐々に勢力は縮小したが、信長に引き継がれる基盤を作ったことは紛れもない事実である。

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*コメント [#comment]
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