勝幡城(しょばたじょう)は、天文3年(1534年)出生である織田信長出生の城として有力視される城郭。 近年まで信長出生の城として古渡城、那古野城、勝幡城が候補に挙がっていたが、那古野城での出生が定説であった。 しかしながら、『言継卿記』によれば天文2年(1533年)には竹王丸(今川氏豊)が那古野城主であり、織田信秀(信長の父)の勝幡城に招かれている。 さらに『尾州古城志』には天文3年(1534年)に織田信長が勝幡城で生まれたと記されており、信秀が那古野城を領していたのが確実とされる時期は天文7年(1538年)であることから勝幡城出生説が有力となった。 また、古渡城が築かれたのは信秀の那古野城奪取後であるため、天文7年(1538年)に那古野城が奪取されたのであれば当然ながら古渡城は候補から消える。
城郭構造(クリックで表示)
城郭の特徴としては大きな櫓台があり、10メートル四方の台に相当な規模の櫓があったとされる。 土塁も高く、水害対策(近くを流れる三宅川を含めた河川の氾濫への備え)としても機能した。 曲輪は外周を埋めるような円状ではなく、北の曲輪は弧を描いた先が緩やかに外へ向いており、南から伸びてくる曲輪の端が望める。 これは「横矢」と呼ばれる防衛の工夫のひとつで、敵を両方角から矢で射貫く設備である。 南北の曲輪の端の間には土橋が設けられており、本丸へ進もうと渡った敵を両端から一斉に狙撃することができる。 これを「合横矢(あいよこや)」「両横矢(りょうよこや)」といい、勝幡城は横矢を四方に張り巡らせ厳重に守らせたとされる。
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