勝山館 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報勝山館は蠣崎氏初期の居城である。 続きをクリックで表示 武田信広は蠣崎氏の祖となった人物であり、松前氏の記録では若狭武田氏の一族であるという。 しかし、信頼できる一次史料の多い若狭武田氏の中に信広の名は確認できないため、実際には若狭の武装商人が土着したとも、甲斐源氏南部氏の流れであるとも言われており、はっきりしたことはわかっていない。 いずれにせよ、勝山館を拠点とした信広は、15世紀後半から交易を巡る和人とアイヌの武力衝突の中で指導者として和人達を糾合していったことは確かである。 しかし、信頼できる一次史料の多い若狭武田氏の中に信広の名は確認できないことから、これは仮冒とされ、実際には若狭の武装商人が土着したとも、甲斐源氏南部氏の流れであるとも言われており、はっきりしたことはわかっていない。 蠣崎氏が若狭武田氏の一族を名乗ったのは、当時の日本海交易では若狭が京都へ運ばれる荷物の荷揚げ地であり、当地を治めていた若狭武田氏と近しい関係を築くことで交易を円滑に進めたいという意図があったものとされている。 いずれにせよ、勝山館を拠点とした信広は、15世紀後半から頻発した和人とアイヌの武力衝突の中で活躍し、和人勢力を糾合する指導者となったことは確かである。 その後、信広の子光広が拠点を徳山館?に移すと、勝山館は重要な支城となり一族が配され、和喜の館と呼ばれた。これは脇が転じたものであるという。 館跡地は昭和52年(1977年)上之国館跡として近隣の館跡とともに国指定史跡に指定された。 館跡地は昭和52年(1977年)上之国館跡として近隣の館跡とともに国指定史跡となった。 その後大規模な発掘調査が行われ、交易で運ばれてきたと思われる15世紀後半~16世紀後半にかけての陶磁器や漆器、アイヌが用いる骨角器など様々な遺物が7万点という膨大な数出土し、うち921点が国の重要文化財に指定された。 これは上ノ国一帯が日本海交易において極めて重要な拠点として栄えていたことを如実に表している。 また、跡地は現在公園として整備されており、往時の堀切や柵の跡、井戸など多くの遺構を確認することができる。
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