加久藤城 のバックアップの現在との差分(No.4)

  • 追加された行はこの色です。
  • 削除された行はこの色です。
*現実の城情報 [#information]

//編集前に[[テンプレート/城娘]]の「現実の城情報」をご確認ください。(このコメントは必ず残してください。他のコメントは不要なら削除していいです)
宮崎県えびの市加久藤。
宮崎県の南西部に位置するこの地に築かれた城。
それが加久藤城であり、伊東氏の資料には「覚頭城」と記されていた。
この城は、比高53mほどの独立した丘陵上にあった要害の城で、周囲を断崖で囲まれ、特に北側にあった鑰掛口は「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁であった。
この城は、独立した丘陵上にあった要害の城で、周囲を断崖で囲まれ、特に北側にあった鑰掛口は「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁であった。
そして、南東の大手門を守るために「新城」が、西方の徳泉寺口を守るために「浄慶城」が築かれていた。
島津義弘が「木崎原の戦い」で本陣を置いた二八坂がある大明司を挟み、その東方4キロほどに位置する[[飯野城]]とは、大明神城、掃部城、宮之城の三つの塁を介して連絡路で結ばれていたとされる。
東方4キロほどに位置する[[飯野城]]とは、大明神城、掃部城、宮之城の三つの塁を介して連絡路で結ばれていたとされる。
#br
#style(class=submenuheader){{
&color(White,Maroon){続きをクリックで表示};
}}
#style(class=submenu){{
築城年代は応永年間とされ、日向国の北原氏によって、真幸院小田村に[[徳満城]]の支城として築かれ、当初は「久藤城」と呼ばれていた。
永禄5年(1562年)に北原氏が滅ぶと、久藤城は島津氏の持城となる。
そして島津義弘は、縄張りに中城と新城を加えて名を「加久藤城」に改め、家臣の川上忠智を城代として、正室と嫡子を城に住まわせていた。
元亀3年(1572年)「木崎原の戦い」が起こる。
伊東氏の軍勢は、島津氏の計略にかかり、攻め難い鑰掛口から城の搦め手へと進もうとするが、兵の勘違いなどから誤ってこれを守る浄慶城を攻撃してしまう。
樺山浄慶らの奮戦もあったが、伊東氏はこれを落とし搦め手へと向かうが、絶壁などに阻まれ思うように進めなかった。
川上忠智は、島津氏家臣・遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に、伊東氏を攻撃し撃退に成功したとされる。
そして、元和元年(1615年)の一国一城令により、廃城になるまでこの城は存続したのである。
現在、城内には夭折した義弘の嫡子が葬られた墓があり、城へ向かう途中には墓石が見られる。

}}
|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|宮崎県えびの市加久藤|
|現存状態|土塁、堀、虎口|
|城郭構造|平山城|

//#br

//題名を付けて説明する場合は、以下の方法で必ず折り畳んでください。
//初めから折り畳みにすると、Edit番号が割り振られませんが、Edit番号の入力は任意でお願いします。
//#style(class=submenuheader){{
//&color(White,Maroon){(題名を入力してください)(クリックで表示)};
//}}
//#style(class=submenu){{

//Edit番号不要、またはEdit番号についてよく分からない場合は次行はコメントアウトしたままにしておいて下さい。
//***(題名を入力してください)

//(本文を入力してください)

//#br

//}}
*コメント [#comment]
#pcomment(,reply,10,)

//議論板は必要に応じて設置してください。
//*議論板 [#gironcom]
//#region(←議論板 %%%性能や編集についてツリーが伸びたり誘導されたりした場合はこちらを利用してください。%%%)
//#pcomment(Comments/ページ名/議論,reply,10,)
//#endregion



ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS