宮崎県えびの市加久藤。 宮崎県の南西部に位置するこの地に築かれた城。 それが加久藤城であり、伊東氏の資料には「覚頭城」と記されていた。 この城は、比高53mほどの独立した丘陵上にあった要害の城で、周囲を断崖で囲まれ、特に北側にあった鑰掛口は「鑰掛うど」と呼ばれる絶壁であった。 そして、南東の大手門を守るために「新城」が、西方の徳泉寺口を守るために「浄慶城」が築かれていた。 島津義弘が「木崎原の戦い」で本陣を置いた二八坂がある大明司を挟み、その東方4キロほどに位置する飯野城とは、大明神城、掃部城、宮之城の三つの塁を介して連絡路で結ばれていたとされる。
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築城年代は応永年間とされ、日向国の北原氏によって、真幸院小田村に徳満城の支城として築かれ、当初は「久藤城」と呼ばれていた。 永禄5年(1562年)に北原氏が滅ぶと、久藤城は島津氏の持城となる。 そして島津義弘は、縄張りに中城と新城を加えて名を「加久藤城」に改め、家臣の川上忠智を城代として、正室と嫡子を城に住まわせていた。 元亀3年(1572年)「木崎原の戦い」が起こる。 伊東氏の軍勢は、島津氏の計略にかかり、攻め難い鑰掛口から城の搦め手へと進もうとするが、兵の勘違いなどから誤ってこれを守る浄慶城を攻撃してしまう。 樺山浄慶らの奮戦もあったが、伊東氏はこれを落とし搦め手へと向かうが、絶壁などに阻まれ思うように進めなかった。 川上忠智は、島津氏家臣・遠矢良賢が率いる飯野城からの援軍らと共に、伊東氏を攻撃し撃退に成功したとされる。 そして、元和元年(1615年)の一国一城令により、廃城になるまでこの城は存続したのである。 現在、城内には夭折した義弘の嫡子が葬られた墓があり、城へ向かう途中には墓石が見られる。
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