兼山城 のバックアップの現在との差分(No.1)
現実の城情報「攻めの三左」森可成や「鬼武蔵」森長可ら、森氏が居城としたことで知られる、美濃の代表的な織豊系城郭。 金山城は北側を流れる木曽川に兼山湊が置かれ、南側を東西に中山道が通るという商業・交通の要衝であったため、森氏は兼山城を本拠として東美濃を統治した。 金山城は北側を流れる木曽川に兼山湊が置かれ、南側を東西に中山道が通るという商業・交通の要衝であったため、森氏は金山城を本拠として東美濃を統治した。 続きをクリックで表示 元亀元年(1570年)、可成は宇佐山城の戦いで討死し、長男の可隆がすでに天筒山城の戦いで討死にしていたため、次男の長可が城主となった。 長可は天正10年(1582年)の甲州征伐の功によって信濃川中島四郡を与えられ海津城に移ったため、可成の三男で森蘭丸として知られる成利が金山城に入った。 その成利も同年の本能寺の変で討死し、信濃では天正壬午の乱が起こったため長可は海津城から撤退して金山城に帰還し、東美濃の統一を進めた。 元亀元年(1570年)、可成は宇佐山城の戦いで討死し、長男の可隆がすでに天筒山城の戦いで討死していたため、次男の長可が城主となった。 長可は天正10年(1582年)の甲州征伐の功によって信濃川中島四郡を与えられ海津城に移ったため、『信長公記』『兼山記』によれば、可成の三男で森蘭丸として知られる成利が美濃5万石と金山城を与えられた。ただし、『遠山来由記』『巌邑府誌』では金山城を与えられたのは団忠正で、成利が与えられたのは岩村城としている。 いずれにせよ城持ち大名に昇格した成利も同年の本能寺の変で討死し、空白地帯となった信濃では天正壬午の乱が起こったため長可は海津城から撤退して金山城に帰還し、東美濃の統一を進めた。 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可が討死すると、可成の六男・長重(のちの忠政)が城主となるが、忠政は慶長5年(1600年)に信濃川中島に転封となり、兄長可も居城としていた海津城に入った。 金山城は犬山城主の石川貞清が城主を兼任し、元禄年間に津田房勝が記した『正事記』などによると、金山城の建物は解体され資材は犬山城の改修に転用されたという「金山越」の伝承がある。 兼山城は木曽川中流域の左岸、標高276メートルの古城山に築かれ、主郭が設けられた山頂部から東・南・西に続く尾根筋に階段状に曲輪群が配置され、北側は断崖に守られていた。
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