元寇防塁 のバックアップ差分(No.6)

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*現実の城情報 [#information]

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文永11年(1274年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は元のフビライ・ハーンによる侵攻を受け、これを退けた。(文永の役)
その後、元の再襲を恐れ、総延長20キロメートルにおよぶ防塁(石築地)を築いたが、これが元寇防塁と呼ばれる。
海鳥社発行の『博多商人』には総工事費の推算が載っており、当時の工期は半年とし、総動員数240万人、総工事費400億円とした。一日当たり1万3000人以上の人員を導入している計算になる。
文永11年(1274年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は元のフビライ・ハーンによる侵攻を受け、これを退けた。世にいう文永の役である。その後、元の再襲を恐れ総延長20キロメートルにおよぶ石築地を築き、これが元寇防塁と呼ばれる。
海鳥社発行の『博多商人』には総工事費の推算が載っており、当時の工期は半年とし総動員数240万人、総工事費400億円とした。一日当たり1万3000人以上の人員を導入している計算になる。
国家の大事業とも呼べる石築地建築の甲斐あって弘安4年(1281年)の弘安の役では、この元寇防塁が築かれたところからは、元軍は一切上陸できなかったという。
古代に石垣(石塁)が築かれた特異な例だが、石垣が再び登場するのは戦国時代末期となり、元寇防塁は[[福岡城]]に転用され、一部を残してほぼ失われたと考えられている。また、九州の諸将に短期間で築かせたためか、分担国によって建築方法が異なっている。

古代に石垣(石塁)が築かれた特異な例だが、石垣が再び登場するのは戦国時代末期となり、元寇防塁は[[福岡城]]に転用され、一部を残してほぼ失われたと考えられている。また、九州の諸将に短期間で築かせたためか分担国によって建築方法が異なっている。
現在は国の史跡として整備されており、平成28年(2016年)9月には、九州大学箱崎キャンパス内の発掘調査により、元寇防塁とみられる遺構が発見されている。さらに平成29年(2017年)6月26日には元寇防塁の遺構としては初めて溝状遺構の確認が発表された。
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なお文永の役の際に、神風が吹いて元軍が撤退したという逸話があるが、『高麗史』によると撤退中に暴風雨に遭遇したのであり、神風は撤退理由ではない。
一方、弘安の役では、台風を受けた元軍が軍船の多くを失ったことが記録されている。
元は文永5年(1268年)1月に南宋への攻撃開始と併せ、国書を携えた使者を大宰府へ派遣した。このときすでに高麗は征服され服従している。
北宋時代から交流のある南宋と日本の交易関係を元はよく思っていなかった。南宋を孤立化させて進攻をより強固なものにしようとした、と見るのが通常の見方である。元からの国書にはこうある。
''「日本は開国以来、ときに中国と通交している」「今からは問を通じ好を結んで、互いに親睦しよう」''と一見すると寄り添った言葉が並べられているが、''「兵を用いるのは誰が好むであろう」''という言葉で締め括られた。
幕府は従わなければ侵略するという元の腹の内を見た。北条時宗は国書を黙殺し、「蒙古人が凶心を挿んで本朝を窺うから用心せよ」と御家人に通達している。一説には元にしてはかなり温和な姿勢の国書であったと解釈される。
他方、朝廷は賊人が襲ってくると狼狽したといい、返事の草案には「日本は神の国なので屈服させようとすべきではない」とあり、国難に対して具体案のない模様だった。
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現在は国の史跡として整備されており、平成28年(2016年)9月には、九州大学箱崎キャンパス内の発掘調査により、元寇防塁とみられる遺構が発見されている。さらに平成29年(2017年)6月26日には元寇防塁の遺構としては初めて溝状遺構の確認が発表された。

なお文永の役の際に神風が吹いて元軍が撤退したという逸話があるが、『高麗史』によると撤退中に暴風雨に遭遇したのであり、神風は撤退理由ではない。
元からすれば、この文永の役での戦いは日本に恐怖を植え付け外交を有利にするのが目的で、撤退ははじめから織り込み済みであったのだ。さらにその時期に吹いた風は時期から見て寒冷前線であろう。
大小を含め900艘の多くがこのときに吹いた突風によって座礁し、船から放り出され兵は命からがら漂着したが、日本の武士にことごとく斬り殺されたという。
この当時の船は高麗人によって建造された高麗船のためただでさえ質がよろしくない。そのうえ5か月という短い工期が祟り帆柱の軸に欠陥があったという。二つの悪い要因が影響して高麗船は突風に耐えられなかったのだ。
一方、弘安の役では突風を受けた元軍が軍船の多くを失ったことが記録されている。
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|BGCOLOR(#ddd):80|300|c
|所在地|福岡県福岡市東区箱崎|
|現存状態|石垣(石塁)|
|城郭構造|防塁|

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**攻めてきたのはモンゴル人なのか [#a759b504]
「元寇はモンゴル帝国のモンゴル人によっておこなわれた侵略行為である」というのが教科書やそれを是とする資料の認識である。陸続きであればまだしも、騎馬民族である元に造船技術はほとんどない。
実際に攻めてきた3万4万の兵のほとんどは高麗人の一般兵で、将軍や指揮官級は黒人やアラブ系の民族がおかれた。蒙古族であるモンゴル人はほとんどこの戦争に参加していないのだ。
チンギス・ハーンには1218年に高麗の地に攻め入り40年をかけ征服し、1259年に服属させた。進軍を開始した直後、高麗の政府はソウル近くの島に逃亡し、高麗はいわば無政府状態と化す。
このとき事実上その地を支配したのが三別抄(さんべつしょう)とよばれるヤクザの類である。元軍は三別抄を見事駆逐し一時撤退した。そのときに約60万人もの高麗人がそのあとをついて、ロシアに近い中国の東部へ移り住んだ。
もちろん高麗との戦争は終わってはおらず、1259年に高麗が国として元に服従するまで戦闘は続いた。高麗が元の一部として取り込まれずにその名を残せたのは「自分たちより日本という豊かな国があるからそちらを攻めた方がいい」と進言したためという説がある。
奇妙な話だが、この時点で元の属国として服従した「高麗人」とその前から元について逃亡した「高麗人」の2つが存在する。その複雑な状況下で元寇は開始されたのだ。南宋支配で手一杯であった元軍に日本を攻める余裕はなかった。
かわりに軍事費・兵糧・造船・兵力のほとんどを負担し日本への進軍をおこなったのは高麗であるから、モンゴル人が攻めてきたというのは表現が正しくない。元寇で2度にわたって攻め入ったのは高麗人であるとするのがより釈然とする。

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