元寇防塁 のバックアップ差分(No.4)

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*現実の城情報 [#information]

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文永11年(1274年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は元のフビライ・ハーンによる侵攻を受け、これを退けた。(文永の役)
その後、元の再襲を恐れ、総延長20キロメートルにおよぶ防塁(石築地)を築いたが、これが元寇防塁と呼ばれる。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、この元寇防塁が築かれたところからは、元軍は一切上陸できなかったという。
海鳥社発行の『博多商人』には総工事費の推算が載っており、当時の工期は半年とし、総動員数240万人、総工事費400億円とした。一日当たり1万3000人以上の人員を導入している計算になる。
国家の大事業とも呼べる石築地建築の甲斐あって弘安4年(1281年)の弘安の役では、この元寇防塁が築かれたところからは、元軍は一切上陸できなかったという。
古代に石垣(石塁)が築かれた特異な例だが、石垣が再び登場するのは戦国時代末期となり、元寇防塁は[[福岡城]]に転用され、一部を残してほぼ失われたと考えられている。
また、九州の諸将に短期間で築かせたためか、分担国によって建築方法が異なっている。
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なお文永の役の際に、神風が吹いて元軍が撤退したという逸話があるが、『高麗史』によると撤退中に暴風雨に遭遇したのであり、神風は撤退理由ではない。
一方、弘安の役では、台風を受けた元軍が軍船の多くを失ったことが記録されている。
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現在は国の史跡として整備されており、平成28年(2016年)9月には、九州大学箱崎キャンパス内の発掘調査により、元寇防塁とみられる遺構が発見されている。さらに平成29年(2017年)6月26日には元寇防塁の遺構としては初めて溝状遺構の確認が発表された。

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|所在地|福岡県福岡市東区箱崎|
|現存状態|石垣(石塁)|
|城郭構造|防塁|
*コメント [#comment]
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