元寇防塁 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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文永11年(1274年)、鎌倉幕府第8代執権・北条時宗は元のフビライ・ハーンによる侵攻を受け、これを退けた。(文永の役)
その後、元の再襲を恐れ、延長20キロメートルにおよぶ石築地を築いたが、これが元寇防塁と呼ばれる。
弘安4年(1281年)の弘安の役では、この元寇防塁が築かれたところからは、元軍は一切上陸できなかったという。
古代に石垣(石塁)が築かれた特異な例だが、石垣が再び登場するのは戦国時代末期となり、元寇防塁は[[福岡城]]に転用され、一部を残してほぼ失われたと考えられている。
また、九州の諸将に短期間で築かせたためか、分担国によって建築方法が異なっている。
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なお文永の役の際に、神風が吹いて元軍が撤退したという逸話があるが、『高麗史』によると撤退中に暴風雨に遭遇したのであり、神風は撤退理由ではない。
一方、弘安の役では、台風を受けた元軍の軍船の多くを失ったことが記録されている。
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現在は国の史跡として整備されており、平成28年(2016年)9月には、九州大学箱崎キャンパス内の発掘調査により、元寇防塁とみられる遺構が発見されている。

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|所在地|福岡県福岡市東区箱崎|
|現存状態|石垣(石塁)|
|城郭構造|防塁|
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