佐貫城 のバックアップ差分(No.1)

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*現実の城情報 [#information]

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後北条氏・里見氏による激しい争奪戦が繰り返された、両氏の最前線に位置する上総の要衝。
応仁年間(1467~1468年)に真里谷武田氏の義広が築いたとされるが、それ以前に総州長尾氏が築いたという説もある。
北上川と染川に挟まれた丘陵上に築かれ、尾根や崖などの自然地形を縄張に取り入れ、土塁や空堀で防御された。
天文6年(1537年)に真里谷武田氏で後継者争いが起こると、上総進出を図る安房の里見義堯が真里谷信応を支援した。
翌年に起こった第一次国府台合戦で後北条氏が支援する真里谷信隆に信応が敗れ追放されると、これを機に義堯は本格的に上総へと進出して[[久留里城]]を居城とし、佐貫城も里見氏の支配下に入った。

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後北条氏もまた上総に進出してきたことで、佐貫城は絶え間ない攻防戦によって度々所有者が変わった。
天文13年(1544年)には[[玉縄城]]主北条綱成が佐貫城を攻撃し、翌年に北条氏康が佐貫城を占拠した。
弘知2年(1556年)には里見義弘が佐貫城を奪って本拠とし、ここから出陣して後北条氏の鎌倉を攻撃している。
しかし永禄2年(1559年)には後北条氏が奪い返し、布施弾正が城代として置かれた。
永禄5年(1562年)には上杉謙信が古河公方に足利藤氏を擁立し、[[古河城]]を追われた足利義氏は一時[[関宿城]]に入ったのち、氏康の保護下で佐貫城に入り、ここに仮の御所を置いた。
翌年に義弘が佐貫城を奪い義氏は鎌倉に逃れたが、後北条氏は第二次国府台合戦で里見氏に勝利し上総南部に侵攻した。
永禄10年(1567年)、義弘は佐貫城から出陣して三船山合戦で後北条氏に勝利し、以後上総では里見氏が優位に立った。
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しかし天正6年(1578年)に義弘が死去すると里見氏では内紛が起こり、佐貫城には城代が置かれ本拠は安房に後退した。
さらに天正18年(1590年)の小田原征伐で里見氏は上総の所領を没収され、佐貫城には徳川家康の家臣・内藤家長が入った。
元和8年(1622年)には松平忠重が入って佐貫藩を立藩し、以後廃城と再建を繰り返しつつ、宝永7年(1710年)に阿部正鎮が入って佐貫城を再建してからは阿部氏8代の居城となって明治維新を迎えた。

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|所在地|千葉県富津市佐貫|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|連郭式平山城|

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