佐土原城 のバックアップソース(No.4)
*現実の城情報 [#information]

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[[内城]]が言及する城。
[[内城]]主島津義久の弟で、祖父・忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評された家久の居城として知られる。
14世紀半ば頃、北西に峻険な山々があり、北東と南西に池が位置する鶴松山の尾根の一部に、伊東氏の一族である田島休助によって田島城として築かれた。
応永34年(1427年)に伊東氏の分家が入城して佐土原氏を名乗って以降は、島津氏の時代も含めて鶴松城や松鶴城という名称が用いられたが、通称として佐土原城と呼ばれ続けた。
文明12年(1480年)には伊東氏本家の伊東祐堯の子・祐国が佐土原氏の養子となり、祐国はやがて本家の当主となったが、[[飫肥城]]攻めで討死した。
天文5年(1536年)には伊東義祐が当主となるが、その翌年に佐土原城は焼失し、義祐は天文11年(1542年)から翌年にかけて尾根続きの北側に新たに城を築き、旧城跡には松尾丸が置かれた。

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この義祐の頃に佐土原城は伊東四十八城の中核に位置づけられ、伊東氏代々の居城である[[都於郡城]]とともに伊東氏の重要拠点となる。
義祐は伊東氏の宿願だった飫肥城奪取に成功するなど伊東氏の最盛期を築き、佐土原城下に京の鹿苑寺金閣を模した金柏寺を建立し、佐土原は「九州の小京都」と称された。
しかし義祐は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで島津義弘に大敗し、天正5年(1577年)に豊後国へと落ち延びた。島津氏はその後耳川の戦い、沖田畷の戦いなどに勝利し九州をほぼ制圧、佐土原城には島津家久が入った。
天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後も佐土原は家久に安堵されるが、その直後に急死してしまう。
家久の死後はその子豊久が城主となったが、豊久は関ヶ原の戦いで討死したため、佐土原城は一時幕府領となる。
慶長8年(1603年)には島津以久が3万石で入り佐土原藩が成立、以後江戸時代を通じて佐土原藩島津氏の居城となった。
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佐土原城は慶長11年(1611年)に山頂部に本丸が築かれ、その南側に位置する伊東氏時代の城は南の丸として修復され、本丸に隣接して殿司丸も築かれ。鶴松山の全体が要塞化されることとなった。
寛永2年(1625年)には山麓の平地である二の丸に御殿が築かれ、以後佐土原藩の政庁として機能した。
平成5年(1993年)には発掘調査をもとに、二の丸跡に大広間・書院・数寄屋など二の丸御殿の一部を復元した鶴松館が、歴史資料館として公開されている。
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従来、南九州の城には天守が無いというのが通説だったが、佐土原城の殿司丸での平成8年(1996年)の発掘調査によって天守台跡や金箔鯱瓦が発見され、佐土原城に天守があったことが確実となり、大きな注目を集めた。
また佐土原城は伊東氏・島津氏のもと、中世から近世まで一貫して地域支配の拠点として使用された城としても評価され、平成16年(2004年)に国指定史跡となり、平成29年(2017年)には[[続日本100名城>日本100名城#o6df7c09]]に選定された。

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|所在地|宮崎県宮崎市佐土原町上田島|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|山城|
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