佐土原城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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[[内城]]主島津義久の弟、家久の居城として知られる。14世紀半ば頃に田島城として築かれ、応永34年(1427年)に伊東氏が入城して以降は鶴松城や松鶴城という名称が用いられたが、通称として佐土原城と呼ばれ続けた。
伊東義祐の頃には伊東四十八城の中核に位置づけられ、伊東氏代々の居城である都於郡城とともに伊東氏の重要拠点となる。
義祐は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いで島津義弘に大敗し、天正5年(1577年)に豊後国へと落ち延びた。島津氏はその後耳川の戦い、沖田畷の戦いなどに勝利し九州をほぼ制圧、佐土原城には島津家久が入った。

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天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後も佐土原は家久に安堵されるが、その直後に急死してしまう。
家久の死後はその子豊久が城主となったが、豊久は関ヶ原の戦いで討死したため、佐土原城は一時幕府領となる。
慶長8年(1603年)には島津以久が3万石で入り佐土原藩が成立、以後江戸時代を通じて佐土原藩島津氏の居城となった。
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従来、南九州の城には天守が無いというのが通説だったが、佐土原城での平成8年(1996年)の発掘調査によって天守台跡や金箔鯱瓦が発見され、佐土原城に天守があったことが確実となり、大きな注目を集めた。
また佐土原城は伊東氏・島津氏のもと、中世から近世まで一貫して地域支配の拠点として使用された城としても評価され、平成16年(2004年)に国指定史跡となった。

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|所在地|宮崎県宮崎市佐土原町上田島|
|現存状態|堀、土塁、石垣など|
|城郭構造|山城|

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