佐倉城 のバックアップソース(No.3)
*現実の城情報 [#information]

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戦国時代、[[本佐倉城]]主千葉親胤の命により鹿島親幹が築城が始めたが、幾度もの暗殺・内紛により工事は中止されついに完成することはなかった。
慶長15年(1610年)、徳川家康の命を受けた佐倉藩主土井利勝によって築城が再開され、完成した佐倉城には佐倉藩の藩庁が置かれた。
本佐倉城同様、印旛沼に連なる湿地帯を外堀として用いたが、江戸時代に行われた印旛沼干拓事業によって印旛沼本体から切り離された。
佐倉藩は江戸東方の防衛拠点として幕閣の重要人物が藩主に任じられ、その城下町として佐倉は大いに栄えた。
明治に入ると廃藩置県と廃城令によって建物は取り壊されるが、城地は陸軍の衛戍地(駐屯地)に指定されたために大規模な破壊を免れた。

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歩兵第2連隊の後に歩兵第57連隊(通称佐倉連隊)が入営し、その兵営や訓練施設の遺構も城内のあちこちに残っている。
昭和37年(1962年)、市の史跡に指定。現在は佐倉城址公園として整備され、明治の兵営建設時に取り壊された空堀・土塁等が復元された。
取り壊しを免れた部分では本丸・二の丸・三の丸、その外に配された諸曲輪や出丸に区分けられた近世城郭の地割が良好な形で残る。
一方で建物はそのほとんど全てが破却されたため、城内で使われていたと伝わる薬研門一基のみしか残っていない。
また昭和56年(1981年)には城内に国立歴史民俗博物館が置かれ(一般公開は1983年から)、歴史研究の拠点としても重要な場所になっている。

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|所在地|千葉県佐倉市城内町|
|現存状態|堀、土塁、曲輪跡|
|城郭構造|連郭式平山城|

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