伊勢長島城 のバックアップソース(No.1)
*現実の城情報 [#information]

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長島一向一揆の拠点として、織田信長を大いに苦しめたことで知られる、信長包囲網の一角を担った城。
寛元3年(1245年)に鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経の実父である藤原道家が居館を築いたのが始まりとされ、文明14年(1482年)に「北勢四十八家」と呼ばれる北伊勢の小豪族の一人、伊藤重晴が道家の居館跡に伊勢長島城を築いた。
元亀元年(1570年)、信長に反発し挙兵した[[石山本願寺>石山御坊]]に呼応し、願証寺の住職・証意や石山本願寺から派遣された下間頼旦らが一向衆を率いて伊勢長島城を攻略し、長島一向一揆の本拠地とした。

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長島の地は伊勢とはいうが尾張との国境に位置するまさに信長のお膝元で、『信長公記』には「尾張国河内長島と申すは隠れ無き節所なり、濃州より流れ出づる川余多有」と記されている。
その記述通り、伊勢長島城は木曽川・長良川・揖斐川が流れ込む伊勢湾のデルタ地帯に築かれた天然の要害だった。
また長島はかつて「七島」と呼ばれていたように小さな島(中洲)が点在し、一揆勢は伊勢長島城の他に篠橋城や大鳥居城、屋長島城、中江城も拠点としていた。
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一揆勢は伊勢長島城を奪うとすぐさま織田方の小木江城を攻撃し、信長の信頼が厚かった弟・信興を自害に追い込んだ。
翌元亀2年(1571年)、信長は信興の弔い合戦とばかりに伊勢長島城を攻撃したが、一揆勢は堤を切って織田勢を濁流に巻き込み、撤退する織田勢を待ち伏せし氏家卜全を討ち取るなど、頑強に抵抗した。
信長は天正元年(1573年)にも攻め寄せたが、この時も林通政が討死するなど損害が大きく、撤退を余儀なくされた。
翌年、信長は三度出陣し、滝川一益や九鬼嘉隆率いる水軍によって一揆勢の諸城の連携を分断し、主要な家臣のほぼ全てを投入するという大規模な攻略作戦を実施した。
伊勢長島城は次第に追い詰められ降伏を申し出たが信長は許さず、一揆勢の殲滅を図ったが、その際に捨て身で織田方の陣へ突入した一揆勢により信長の一族の多くが討死した。
伊勢長島城は落城し、中江城と屋長島城にいた一揆勢2万も焼き殺され、長島一向一揆は鎮圧された。
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伊勢長島城はその後滝川一益に与えられ、賤ヶ岳の戦い後は織田信雄が入り、小牧・長久手の戦いの発端と言われる信雄による三家老殺害事件の舞台となった。
小牧・長久手の終戦後は、[[帰雲城]]や[[大垣城]]なども壊滅した天正13年(1586年)の天正地震で伊勢長島城も倒壊したため、信雄は[[清洲城]]へ移った。
関ヶ原の戦い後は菅沼氏が入って長島藩を立藩、伊勢長島城を修築し藩庁として用いた。
菅沼氏が膳所藩へ移ると長島藩は廃藩となり、[[桑名藩>桑名城]]の松平氏が管理し、この頃に伊勢長島城の大改修が行われ近世城郭となったという。
慶安2年(1649年)に久松松平氏が入ると長島藩は再興され、元禄15年(1702年)に入った増山氏が8代続いて明治に至った。

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|所在地|三重県桑名市長島町|
|現存状態|移築門、移築書院、石垣、堀など|
|城郭構造|輪郭式平城(水城)|
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