乳井城 のバックアップソース(No.1)
比高10m程の段丘に築かれた中世古城である。正確な年代は不詳だが、乳井福王寺氏によって天文年間(1532年~1550年)によって築かれたと云われている。
乳井福王寺氏は信濃戸隠の修験者出身で、鎌倉時代この地に福王寺を築いて定着したが、室町時代に寺院防衛のため武装し城を築いた。
これは乳井古城と呼ばれるものだったが、南北朝時代に南朝方に付いたため北朝側の[[堀越城]]を築いた曽我貞光によって攻め込まれ、当主が討たれ城も焼かれてしまった。
末寺の1人が福王寺を継ぐことを許され、地名を採って乳井氏を名乗った。ちなみに乳井の由来はお乳の出が良くなる井戸があったことによる。

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南部家からの独立心が強い乳井玄蕃かその父によって、乳井古城から北に700m程の段丘に天文年間(1532年~1550年)に築かれたのが乳井城である。
これと同時期に乳井茶臼館も築いており、これは比高700mの山城で詰の城に当たる。
永禄8年(1565年)、反抗心の強い乳井玄蕃が南部家の滝本播磨守重行によって暗殺されてしまうと、子の乳井大隅守建清は[[大浦城]]の大浦為信(後の津軽為信)の下に逃れた。
乳井城が始めて記録に出るのが天正7年(1579年)である。その前年津軽一統を目指す大浦為信は[[浪岡城]]の北畠顕村を自害させると、
その妻の父、安東愛季が怒り仇討ちに出た。これに蝦夷の蠣崎季広や北畠遺臣・南部家も加わり大きな戦となった。
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安東氏は碇ヶ関を越え、乳井城・乳井古城・乳井茶臼館に攻め寄せ3城を陥とすと乳井城に本陣を置いた。
為信側も兵力を結集し7月4日、乳井城の西にある六羽川(ろっぱがわ)で合戦が起こる。
兵力に勝る安東連合軍は為信軍を凌駕し、為信軍は近習も殆ど討たれ討死寸前のところを田中太郎五郎が身代わりとなり、なんとか戦線を離脱できた。
為信を討ち取ったと思った安東軍は勝利に湧いたが、すぐに兵を纏めた為信は隙を突いて安東軍の本陣へ突撃、大将の比山六郎を討ち取った。
これにより安東連合軍は崩壊。乳井城も為信によって奪還され乳井大隅守建清に返還された。
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その後、天正18年(1590年)秀吉の奥州仕置が終わると、 天正20年(1592年)南部家に「国之内諸城破却」命令が出されており、
津軽家にも同様な命令が出されたとみられ、その前後に破却され廃城になったと思われる。
現在は宅地となっていて遺構は殆ど見ることができない。
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|所在地|青森県弘前市乳井|
|現存状態|なし|
|城郭構造|平城|

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